反原発は愚者の論理

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私の母の実家は福島原発の20キロ圏内の立ち入り禁止エリア。

親族は避難生活であるし、母の墓にはもういけないかもしれないが、反原発には反対だ。

反原発は愚者の論理だ。


つくづく思うのだが、日本の敗戦と原発はよく似た構造をしていると思う。

日本は敗戦を経験した。

そこで反省したわけだ。

で・・敗戦しない方法を考えたわけだ。

ひとつは「戦争に負けない国をもう一度作ること」 もうひとつは「戦争をしないこと」


そして「戦争をしないこと」を選択した。これは非武装の選択だったといっていいかと思う。

しかし朝鮮戦争勃発に際して、米国の方針転換があり、自衛隊が発足して現在に至る。

日本は戦後、限りなく非武装に近い戦争の放棄を受け入れ、「政府に騙された、国民は被害者」という論理を使用してきた。

だが、実際には武力放棄は欺瞞に他ならないし、中立国家のスイスも国家規模に比べればハリネズミのような軍備をしている。


さて、原発だが福島以後、まるで戦後のようである。

「政府に騙された」「政府は隠している」「東電に騙された」「原子力を捨てよう」

これは日本の国民性なのだろうかと疑問である。

危険だからこそ、地方につくり、避難訓練を行ってきたはずだ。

原発事故を経験し、撮るべき選択肢は二つ。

「リスクを極限まで減らした原発を作ること」もうひとつは「反原発」である。


日本は後者に傾きつつあるが、政府がなんとかこらえているのが現状だ。

後者の反原発は、戦後の戦争を反省しているものたちと同じ論理である。

本来は工学的アプローチで討論すべきだが、反対論者は情緒的言葉しか持たない。

そしてこう言う。「百万分の一でも可能性があるなら反対」


これが敗戦の際の論理と酷似している。



原発はエネルギー保障、軍備は国家安全保障である。

原発の場合は事故における人的被害がコストとリスクであり、軍備も戦時の国民の人的損傷がコストとリスクである。

本来はこのコストとリスクを以下に低く抑えるかを語るべきだ。


目先のコストとリスクを恐れ、軍備を怠れば国家自立を損なう。

同じ様に原発も、日本がエネルギーの入手ルートがシーレーンという不安定なエネルギー供給路を考えれば、エネルギー保障を損なう。

今回の事故で、被曝死者は出なかったが、膨大なコストを支払った。

しかし本来は織り込み済みはずのものであり、今後も覚悟のうえで続けるべきものと思う。


だが、反対論者は、メリットとリスクとコストで語るべき点をこう言う。

「政府は信用できない。国は信用できない」

工学的討論をせず、国家批判を行う。まるで新潟県知事のように。

工学的アプローチに興味が無いからだ。


何故なら、彼らは反国家だからである。



福島原発廃炉後は、新規の最新原発を建設すべきと思う。

私は故郷と呼べるものを失ったが、原子力発電を放棄するのは反対だ。

特に同意も賛同も求めない。ただそう思うという話だ。

日本は民主国家。

最大多数の最大幸福が、民主主義の根幹であるはずだ。
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