泣ける喜劇か、笑える悲劇か

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父が亡くなり、1週間経った。

泣くことも無く、ただ普通に1週間が過ぎた。

悲しいとも思わないし、特別な感情は湧かない。




旦那の不正を告発した事で縁を切ったはずの姉が電話してきたが、かなり泣いていた。

25年前、東京女子医大に癌で入院していた母を、私と父と姉の3人でお見舞いに行き、帰りの中央線の電車の中で別れ、そのまま2度と帰ってこなかった姉が泣いている。



「25年前に家族を捨てた時に、覚悟はしていたはず。今こうして話しているのは、ただ連絡がつくというだけのことのはず」と言うと、「わかってはいるけど・・」と言う。



我が家の人間は、みな家族を捨てた。

いや、唯一捨てなかったのは母だけだ。


私は東京に戻ると同時に実家と連絡を絶ち、引越ししても連絡もせずに過ごした。

姉は会社の社長と愛人関係になり、家を捨てて、彼の元に走った。

父は、母と結婚直後から浮気不倫を繰り返し、母が倒れても死んでも、それは直らなかった。



私は41になり、人生とは何かとぼんやり考えている。



好きな人も何人もいて、結婚を考えた時もあった。

懸命に愛情を注いだつもりだが、驚くことにほぼ全員の女性が浮気し、その相手に走った。

当時は別として、今の私は彼女たちを責める気持ちが弱くなった。

原因のひとつは、私の消耗品としての商品価値が無かったからだろう。

利用し続けるメリットが無かったから、他の商品を手に取ったと言うだけのことだ。

愛されたいなら、金を稼いで出直して来な!というところだろう。


この先、どうやって生きていったら良いのかと思う。


おそらく、執着心を捨てること。

これが出来れば、心穏やかに終わりを迎えられることと思う。


愛する者を持たず、愛を求めず、友を持たず、大切なものを持たず、プライドも持たない。

もちろん家族など持たず。

いつ手放しても構わないどうでもいい人やものに囲まれて過ごす。

いつ誰に奪われても、なんの痛痒も感じない無意味なものに囲まれて過ごす。

それが、自分を守る唯一の方法と思う。




言い換えれば、絶望して生きていくことだろうか。

そうすれば、心穏やかに過ごせることだろう。



我々大人は、子供に「ちゃんとしなさい。人に迷惑掛けるな。人のものを取ってはいけない」と教える。


大したジョークだと思う。

不正をしながら「迷惑掛けるな」と教え、不倫しながら「人のものに手を出すな」と教えているわけだ。



それなら本当の事を言えばいいのだ。

子供に対して、「あなたはお父さんの子供じゃなくて、私が愛人をしていた人の子供なの。お父さんにもあなたにも教えずに20何年過ごしてきたけど、嘘ついたんじゃなくて、本当の事を言わなかっただけなの。だってお父さんも不倫を繰り返したり、会社で不正をしても言わないでしょ。それと同じことよ」とでも言えばいいのである。



最近では無力感や怒りより、言いようの無い滑稽さを人生に感じる。



そして傍から覚めた目で見ているとわかることがある。

幸せな人間ほど、幸せの価値を知らず、たやすくその幸せを投げ捨てている。

手放したものは、もう拾えなくなると言うのに。

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