何故、原子力を捨てようとするのか

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私の母方は、福島県であり、今回の原発の被爆エリア20キロ以内にある。

叔父は福島を捨てられず、いまだ避難所に残っているが、叔母や従兄弟は都内と神奈川にとりあえず住まいを移した。

私の母の墓も、当然被爆エリア内だ。

叔父の話では、警官などが防塵マスクに白装束で長い棒を持ち、不明者の捜索をしているそうだ。

子供の頃、夏休みに遊んだキャンプ場や買い物に行ったホームセンターは津波で消え去り、何百人も飲まれた。

被爆エリアと言うことが、いまだ手を差し伸べられていない理由である。






さて、現在震災から約1ヶ月が経過し、人々の心も痛みを受け入れ、復興への一歩をこれから踏み出そうとしている。

しかし、原子力発電への否定的意見が渦巻いている。

当然の反応かとは思うが、いささか感情的過ぎる気もする。

停電の際にも書いたが、未来と言うのは感情を除外し、冷徹さをもって進めるべきだ。

そして人間の行動は、経済活動である事を念頭に置くべきだ。




人間は過去数千年の歴史において、偉大な発明を成し遂げてきた。

火を発見し、鉄器を発明し、蒸気機関を発明し、内燃機関を作成し、インターネットを開発した。

原子力も発明し、原爆で数万人を蒸発させ、原発でエネルギーを作ってきた。

広島では14万人以上が死に、長崎でも8万人亡くなった。

傷を負ったものを入れれば、50万人程度になるだろうか。

今回の原発でも将来的に死者が出るかもしれない。




だが、原子力を捨てるべきではないと思う。

直すべきところは直し、正せるものは正して続けるべきと思う。

安全と言い切っていたものも、反対といって改築に反対していたものも、直すべきは直すべきである。



火事になり、村ひとつ町ひとつ焼失したと言って、人類は火を捨てていない。

アフリカの平原を出たその日から、人間は自らの発見がいかなる犠牲を伴ったと言っても、それを捨て去ったことは無い。

原子力の被害者が、仮に100万だとしても捨て去ることがあってはならない。

原子力を捨てるのは、我々の先祖がアフリカの平原を恐れのあまりに出なかったのと同じことだ。



宗教・・キリスト教や共産主義も人間が開発してきたものだが、人類はいまだその両方を捨てていない。

キリスト教と共産主義の犠牲者の数は、原子力の被害者を上回る。



人類の歴史は、克服の歴史である。

アフリカを出て、大気圏を出て、多くの犠牲を生んだが、歩みを止めれば、種の限界に突き当たる。

いかなる理由があろうと、いかに犠牲者が出ようと、血を流しながら進むべきである。


お台場や新宿中央公園に迷い無く原発を作れる日が来るまで、血を流しつつ進むべきだ。

もちろん私や私に近しい人々が血を流すことになったとして、続けるべきと思う。



進歩には、いつも危険がともなう。

1塁ベースに足をつけたままでは、2累に盗塁することはできないのだから。
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