計画停電は不公平と首都圏の住人は口にしていいのかどうか

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あるブログのコメント欄に、思った事を書き込んだ。

ネタと思われたのか、それなりに叩かれた。

なにを書き込んだのかと言うと・・。

その記事は、計画停電に対するもので、多くのコメントは計画停電の不平等さについてのもの。

21区は停電せず不平等とか、同じ町内であっちの家は停電してなくて不平等など・・。

私の意見としては、この計画停電は「不平等であるが、致し方ない」というもの。

以下、理由。

資本主義はシステムとして、「個人の幸福の総計が社会全体の幸福であり、社会全体の幸福を最大化すべきである」として、「最大多数の最大幸福」を追求するもの。

であるから、「少数の不利益は、社会全体の幸福のために容認する」のではないですか。

また自分が強者であった場合には、弱者に耳を傾けなかったのに、弱者になった途端、声を上げるのは話の筋として整合性が取れて無いのではないですか?という趣旨を書いた。



ちなみにうちは埼玉で停電している。

しかし、例えば沖縄の基地の話の時や、福島の原発などの際には、正直仕方ないと言うのが私のスタンス。

悪く言えば、「見捨ててきた」人間と言うわけだ。

だから、自分が停電と言う弱い立場になった際に、ひどいじゃないかとは言わない。言えない。

言ったのでは、整合性が無い。



しかし、反論として「ここは停電について話す場所。ほかの事は知らない」という意見も頂いた。


かみ合うはずが無い。

ミクロとマクロ、視点が違うからだ。


ある人は「停電地域の患者の命は、21区内の患者より軽いのか」と言っていた。

これは言い換えれば、「沖縄の少女の被害は、東京の少女より軽いのか」となる。

これは言い換えれば、「福島の健康被害は、東京の健康被害より軽いのか」となる。


これは重い問いだが、本来は「価値に違いは無い」となる。

が、現実として、我々は福島・沖縄を見捨ててきた。

少なくとも、私は見捨てて、安全と電力を享受してきた。

つまり、今回停電と言う不利益を受けても、不公平という資格が私には無い。



現実として、我々は能動的か受動的かは別として「21区内の患者の方が重い」と判断したのも同じだ。



ある人は、「福島や沖縄は、利益も受けた筈」というニュアンスのことも言っていた。

「停電する可能性があるとも聞いていなかった」という意見も聞いた。



では、皆さん全員、首都圏の出身ですかと私としては問いたいわけだ。

都内で、東京出身者は10人に1人。

つまり9人は故郷から出てきたわけだ。

何故か・・・。

大雑把に言うなら、「東京に資本が集中しているから」だ。

言い換えれば、「仕事があるから」「稼げるから」「地元に仕事が無いから」

それらがある東京に来て、利益を享受しているわけだ。

ならば沖縄や福島と変わらないではないか。


沖縄や福島は利益を受けたから仕方ないなら、頼みもしないのに東京に来た人達も利益を受けているのだから、仕方ないということになる。


「東電や政府に声を上げて、変えよう」という意見も聞いた。

しかし、歴史が証明している。

沖縄で何十万人が集会しても変わらず、福島や新潟でデモがあっても変わらなかった。おそらくこれからも変わらない。



今度は、我々首都圏の人間がツケを払う番が来たというだけのことなのだ。

自分の番が来た途端、弱者の声を聞いてこなかった我々が文句を言うのでは、筋が通らない。整合性が無い。

筋が通らないのに、声高に叫ぶのを、私は「恥知らず」と呼ぶ。

見捨てた報いに、我々は見捨てられて当然なのである。

感情を抜きにして、冷徹に判断すべき事柄において、「少数の不利益は、社会全体の幸福のために容認する」システムの住人であった我々は、粛々と過ごしてトラブル解決を待つしかない。



意図的かは別として、人を傷つけてきた以上、傷つけられて当然。

傷つけると言う行為は、やり返される覚悟があって成り立つものと、私は思う。


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