モチペーション

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先日、1周年になった100人の村のウェブリングについて書いた。

コメントも頂いた。


それから、色々考えている。


その夜に、100人の村についてのチャット部屋があったので、
久しぶりに部屋に参加した。

部屋に入ると、おそらく社会経験も教育も品性もない若者が、こう言っていた。


「あんな番組も金の為にやっている」
「奇麗事だ」
「人の事なんてどうでもいい」
「ぶっちゃけ、自分が死んだ後は誰がどうなってもいい」


日本は自由の国だ。犯罪にならない限り、どんな主義を持っていてもいい。


彼が去った後、ある青年が「補完性」と「EU」を例に挙げ、
恐らく大学の講義で知ったであろう理論を、自らの理論のように自慢げに披露していた。

年を聞くと、案の定23だと言う。

若さは罪ではないが、経験と実践を伴わない理論には説得力が無い。



質問した。

「あの番組のような今日食べるものも無い人々に、その理論を言って見たら・・。
さぞ、感謝されるだろうよ」

「・・・・」



自分以外の他者に能動的に接する際、ほとんどの場合、言葉には意味が無い。

意味があるのは、行動だけだ。


最初の青年は、理論さえなく、悲しいことに自分がその立場になったらという想像力さえも無い。


私は今まで何度もどん底を味わったことがある。
何日間も食べるものも無く、雨もしのげず、寒さを避ける手段も無い時があった。

じりじりする焦燥感の中、助けてくれるはずも無い人々に対して、
捨てきれない希望を持ち、夜には絶望を味わい続けていた時があった。

私は幸いにして、周囲の助力もあり、元のラインに立つことが出来た。

ただ、いつまた足元が崩れ落ちるかもしれないと、常に考えている。


他人を完全に理解することなどできるはずも無いが、
かつて私が喘いでいた立場にいる人たちの気持ちは察することが出来る。

その時には、後先考えず、全てを捨てるように努力している。

幸か不幸か、私には妻子も家族も無い。
自分の決断が周囲に大きな影響を与えることはほぼ無い。

「明日の食費は取っておく」「何かの為にいくらか取っておく」

それは言い訳だろう。

子供が溺れているのに、「服が濡れるから脱いでから」「心臓発作になったらいけないから、体操してから」と、準備してから飛び込むようなものだ。

救うべきものが溺れていたら、泳げなくても飛び込むのが本当だろう。

溺れるものより大切なものがいるなら、その時は言い訳せず見捨てるしかない。
共に溺れ沈むリスクを掛ける価値があるかの見極めは大事である。


ただ救うべき者はどんなことをしても救う。
自分に救う力が無いなら、せめて倒れるときには共に倒れる。

もちろん、困窮している人を救える力も無いが、
私にしか救えない人が出て来た時には、そうあろうと考えている。



たとえ、次の瞬間、心底後悔するとしても、
そうするべきと自分を躾けている。



偽善と非難されることもあるだろうし、自己満足と言われても否定はしない。

ただ、少なくとも飛び込まない人々に非難される云われは無い。

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