邪念を払う

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先日、ブログで知り合った方が、古都京都でお数珠のショップを開いた。

ご興味のある方は、1度訪ねてみるといいだろう。



数珠。

じゅず・ずずと読む。念珠とも言う事もある。

一説では、古代バラモン教が発祥とも言われているが定かではなく、
日本では真言密教の影響で、念仏を唱える際の仏具として定着した。

玉の数は煩悩の数の108であったが、次第に簡素化され、
半数の54、さらに半数の27等がある。

同じようなものは、他の宗教にもあり、キリスト教、特にカトリックのロザリオに似ている。

プロテスタントはロザリオを持たないが、カトリックにとっては重要なものである。

私はカトリックと言うわけではないが、学生時代キリスト教系の学校に行っていたせいもあり、もっとも身近な宗教だ。

カトリック教徒は祈祷文を唱えるたびに、ロザリオの珠をひとつ手繰る。

昔、知り合いがバチカンを訪ねる際に、土産としてロザリオを頂いた。

以来肌身離さず、身に付け、何かの際には考えながら手繰っていた。

当ても無く街を歩き、するべきこともなく、頼る人間も無く、
「あぁ、俺は人生を台無しにしてしまった」と嘆きながら、
祈るとも無く祈った時にも、手にしていた。

今では、神の思し召しか、ロザリオは我が手を離れ、我が分身と思える人物の手にあるが、今でも十字架のネックレスを手に巻き、宙を眺めるときがある。

人間と言うものは、自分以外のものの前では常に自分というものを演じ、ともすれば自分自身でも自分というものを見失いがちだが、宗教的なものを別としても、「祈る」と言う行為を行うときには、邪念を払い、等身大の自分というものを見つめ、認めているものだろう。

等身大の自分を他者に対しさらすと言うのは難しいことだが、30代も半ばにして、人の縁というものを感じるようになってきた。


小人は縁に会って縁を知らず、中人は縁に会って縁を活かせず、大人は縁に会って縁を活かすという。


こうやって考え振り返ると、ネットやブログと言うものも、袖刷りあうも他生の縁である。
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