伝えるという事

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私自身はいわずもがな、サイトというものを持つ者は、心の中に
「自分を理解して欲しい」「自分を知って欲しい」、ともすれば、
「かまって欲しい」という他者からの理解と言うものを、意識的無意識的を別として、欲している。

悪く言えば、自己顕示欲的とも言えるのだが、実際の人間関係以上に、
自分や思っている事、意図している事を他者に伝え切るというのは困難だ。

最近、特にそう感じる。

私のブログやサイトでも、何かについて書いたとしても、それは公共的な面が少ないので、それについても構わない。

なぜなら、多大な時間を費やし、私の言葉の真意と言うものを汲み取ってくれる者が、少ないとはいえいるからだ。

だが、自分自身の私的なサイトの場合、私的意見は心のつぶやきのようなものであり、自分の心の再確認に近いからだ。

だが、不特定多数を相手として、公共的側面の多少なりともあるサイトを始めて、意見を伝えきるということの難しさを改めて感じている。

他者が人間関係の無い人物の意見に耳を傾けるときは、ショッキングな時、自分の利益に通じる時、そして意見自体が魅力的という時ぐらいのものだが、往々にして人は自分の見たいものを見て、聞きたいことを聞く。

言い換えれば、聞きたいことしか聞かない。

子供に言って聞かせるように、各ページで手順を説明し、噛んで含めるように、「次はこうするんですよ」と伝えているのだが、それらをすっ飛ばして「こうしてほしい」とか、「早くこうしろ」というものが多い。

あまりにも多い。

そのサイトに関しては、金にならずとも仕事と思っているので、1回1回説明して、それでも理解しないものは切り捨てている。

もちろん、論理的な人も多いので、そういう人物はまるで指差し確認でもしているかのように、指定どおりの段取りを踏んでくる。

だが、直感的なイメージ先行人物もまた多く、「あんた、まだ申し込む段階じゃないよ・・プランニングしなよ・・」と言いたくなる事も多い。

善悪は別として、20世紀で抜群に演説が上手かった人物として、ナチスのアドルフ・ヒットラーがいるが、彼は著書の「我が闘争」の中で、大衆に意見を伝えるときには、主題を絞り、その主題をただひたすらに繰り返し語り続けろと書いている。

そうしないと自分の聴きたいことしか聞こうとしない大衆には、理解できないと言うことだ。

この意見を初めて見たときには、まるで愚民思想だなとも感じたが、今まで縁の無かった他者を相手として、人間関係を築こうとする時に、あぁさほど的外れな意見ではなかったなと感じてる。

私的な相手ならわざと怒らせ、意見のやり取りをして、胸襟を開かせるという手もあるが、公的なサイトとなるとその手も使えず、壁相手のキャッチボールをしているような感覚を感じる。

まぁ、それゆえに力の入ったボールが帰って来た時の喜びというものも確かにあるのだが・・。

他者との意思疎通というものは、かくも難しい。

自分自身も把握しきれない未熟者の私が、言えるべきことではないが・・。
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