竹島という小さく、そしてとてつもなく大きい島

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昨晩のことである。

チャットで「竹島」問題に話が及んだ。

「たかが小さな島ひとつくらいいいじゃないか」という意見もあったし、
「あんな島のために戦争すべきではない」という意見もあった。

私が意見を言うと「好戦的だね」「人種差別」とも言われた。

まぁ、そうかもしれません。


私は彼らにひとつの質問をしました。


「韓国との領海問題で何人の日本人が殺されたのか知っていますか?」


みんな異口同音に言いましたよ。


「そんな被害は出ていない」


知らないだけ、知らされていないだけです。


竹島をはじめとする韓国との領海問題ではすでに韓国軍の攻撃により、
日本人44人が殺されています。

正確に言うならば、被害にあった日本人は抑留者数3929人、
拿捕された船の数328隻、死傷者数44人に及んでいます。

1953年2月4日には、侵犯したとして日本の第一大邦丸が韓国側に拿捕され、
漁労長が射殺されるという事件も発生している。

抑留された被害者は、日韓漁業協定が成立する1965年まで抑留され、
韓国に人質として利用された。 その年月、最大13年。

日本政府は、彼らを帰してもらうために、
在日朝鮮人の犯罪者を仮釈放して、在留特別許可を与えた。

その犯罪在日朝鮮人の数、472人。

生還した日本人漁師の証言によると、
米や麦の主食は一切出ず、海から取ってきただけの海草を与えられ、
とても食えたものではないその海草で命をつないだそうである。


竹島問題に関して国際裁判を求めても、韓国側は一方的に拒否。


「それでもなお、君らは被害がないというのか?」



皆黙りました。

彼らに悪意がないのはわかっていますが、
今も生きている被害者・証言者はいます。

調べもせず、学びもせず、他者を批判するのは愚かな事です。


確かに竹島奪還を求める私は好戦的かもしれないし、
右翼のように皆さんの目に映るかもしれません。

だが、考えていただきたい。

実際に家族を殺されたり、何年も抑留されても、手をこまねいていいのかと。


福祉というものが、国民の生活を守るものと定義するのなら、
国防こそ最大の福祉なのではないかと、私は思う。

その点まで留意の上、私を右翼的・攻撃的・差別的と言うのであれば、
私は喜んでその呼び名を受けよう。

何故ならどんな時でも平和を求める人間が必要なように、
家族のためなら手段を問わないという人間も必要だからだ。


付け加え

第一大邦丸をご存じない方のために、事件の全容を追記します。

ご意見・ご感想お待ちしております。



昭和27年(1952年)1月18日の海洋主権宣言(所謂、李承晩ライン)以降に起きた、
最も衝撃的な事件について記しておきたいと思う。

それが、「第一大邦丸事件」である。

昭和28年2月23日に行われた、第015回国会 水産・法務・外務委員会連合審査会に
証人として呼ばれた、第一大邦丸船長、浜行治氏の証言から抜粋する。

昭和28年2月4日午前7時ころ、福岡の漁船『第一大邦丸(57トン)』は、『第二大邦丸(57トン)』と済州島沖20マイルの農林漁区第284漁区と思われる海域で操業中であった。

その時、韓国船の『第一昌運号』、『第二昌運号』約55トンが近づいてきた。

彼等は接近して来て、日本語で「魚は獲れますか。」と話をした。
その後、附近で停止して操業開始したかのように見えた。

丁度揚網時間となった第一・第二大邦丸が揚網作業に掛かると、突然、昌運号から自動小銃による発砲を受けたのである。

同国会における外務委員会によれば、乗組員各12名のほか、
憲兵1、特務隊員1、情報隊員1、警邏4、5名が二隻に分乗していたのである。

銃撃開始後約5分で、第一大邦丸は船橋に10数発被弾し、
この時操舵室内に坐っていた漁撈長瀬戸重次郎(34)氏は、
後頭部左側より銃撃をうけ、意識不明となる。

この後、逃走を諦めた第一・第二大邦丸は、
済州島の翰林面という所に随行された。

収容されたのが、翰林面の高医院という普通の民間家。
病室は勿論、設備も全くなく、医師は診ただけでこれは駄目だと何の手当もしない。

船員は、警察へ軍病院などの別な病院への搬送を依頼するが、警察は拒絶。

憲兵隊に病院に収容することを依頼するが、
そのとき憲兵隊長は盲貫銃創だからとても駄目だと言って断った。

船員側から再三再四頼み、ようやく軍病院へ入院することが許可される。

その時に、「車は直ぐ来ますから」というのでそのまま負傷者のところへ行き、
軍病院へ行くまでの間に死なないように、医者にリンゲル注射を一本要求したが、
リンゲルは韓国では当時11万円ぐらいであったため、医者は躊躇。

大邦丸船員が、私物を売ることを約束し、やっとリンゲル一本うってもらったが、
車は遂に来ないまま、2月4日23時、瀬戸氏はお亡くなりになられた。

この後、船員に対して領海侵犯をしたという嘘の調書をでっちあげ、
これに強制的に捺印させるも、現実には公海上の事件であった事がわかり、
佐世保の朝鮮沿岸封鎖護衛艦隊司令官グリッチ少将は、李承晩に会見を求める。

さすがに何の予告もなしに、公海上で日本人漁師を殺害した韓国軍の行動に、
李承晩も遺憾を表し、『第一大邦丸』の釈放に応じたのだった。

こうして、公海において、軍隊及び警察が民間船を装って近づき銃撃を与えるという、
海賊行為よりも悪質な事件は、2月15日、ひとまず幕を下ろした。

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