ひうらさんの思い出

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本日紹介する文章は、昭和初期に蟹工船に乗り込んで
北洋漁業に従事していた日本人男性の手記です。

なにぶん古いものですので、文体が古く読みにくく感じる人もいると思うので、
現代の言葉に書き直して、記載します。

原文は続きに記載しておきますので、興味のある方はどうぞ。

では、紹介させていただきます。



「父の友人にひうらさんという新潟出身の方がいました。
今生きていれば、100歳を越えていることでしょう。
明治の頃に新潟を出て、それはご苦労をなさって、
戦後になり銭湯などを経営して一生を終えられました。

そのひうらさんが、大正か昭和の初めに北洋漁業をしていたときのお話しです。

厳しい寒さのなか、漁をしていると、いわれの無い理由で
ソビエトの警備艇に拿捕されてしまいました。

ソビエトに受けた取調べは惨たらしく、もう生きて日の目は拝めないと思うほどに、
過酷でしてもいない犯罪の自白を強要され、
半殺しのまま、鉄格子の中に投げ込まれました・・。

翌日、捜査官たちの態度は豹変していました。

捜査は打ち切り、無罪放免となり、ロシアンティーまで振舞う始末でした。

私達は釈放され、わけもわからぬままに牢獄を出ました。
半信半疑のまま、港に向かったのです。

その瞬間、何故、助かったかが判りました。

港から見える沖には、日本海軍の巡洋艦などの艦隊が展開し、
その全てが大砲をこちらに向け、攻撃態勢を取っていたのです。


その攻撃力は毎分数千発の威力だと思います。

天皇陛下の国民にかすり傷でもつけたのなら、
ウラジオストックそのものを消滅させるぞという圧倒的な気迫を持ち、
ソビエトを威嚇していたのです。

日の丸がなんと美しく、頼もしく感じたことでしょう。

解放された皆が軍艦に頬ずりしたい思いで、泣きました。

ひうらさんは無事日本に帰国しました。

取るに足りない漁船の数人の乗組員のために、
ソビエト相手の戦争も辞さない覚悟で艦隊を出動させた日本の親心に報いる為、
なお一層仕事に励み、25年前に亡くなりました。

無駄使いはせず、靴も買い換えることなどせず、
靴底だけを交換するようにしていたそうです。

「贅沢する金があるなら、海軍に寄付しろ」と言っていたそうです。」


これがその文章です。

皆さんはどう感じたでしょうか?

野蛮と感じるか、話し合うべきと感じるか、軍国主義と感じるか、
頼もしいと感じるか、それでこそと感じるでしょうか。

私は正直、こうあるべきだと感じました。

文の中で「天皇陛下の国民」と訳しましたが、
原文では「陛下の赤子」という言葉が使われています。

現在天皇陛下は国民の象徴とされていますが、
それでもなお国民の心の柱だろうと、私は思っています。

国が家族であるのなら、天皇陛下は父です。

家族を守るのなら、父ちゃんは戦おうとしたのです。

理不尽に映るかもしれません。

しかし、非難を受けようとも家族を守るのが父の役目です。

「なにをしようと家族は守る」という国と、何年も無為に交渉のみを続ける国。

あなたの理想の父親像は、そのどちらでしょうか?

私はその疑問を読んでくれた方々に投げかけたい。
日本海軍は北洋警備-北洋漁業保護の為に、最旧式駆逐艦を以て編成する駆逐隊の一隊(定数四隻 司令は大佐または古参の中佐)を毎シーズン派遣しておりました。
 國民性なのでせうか、蘇聯(ソ連)は昔から露骨な國で、我が駆逐隊が漁業海域に到達し警備任務に就くや、日頃横暴なる蘇聯艦艇も、途端に猫の如く大人しくなりました。
 だから駆逐隊は毎度漁民から熱狂的大歓迎を受けたものですが、必要に応じ、戦隊もしくは艦隊を迅速に派遣することも行はれたやうです。

 父の友人に「ひうらさん」といふ越後人がありました。
 生きて居られればゆうに百歳超えませう。
 明治の御代に雪の越後を後にして、刻苦勉励、数多辛酸を嘗め、戦後は小金持になり、銭湯など経営して世を終へられました。
 この御仁が、大正の末か昭和の初め、蟹工船に乗組んで北洋漁業に従事してゐた時の話です。
 氷濤の中、果敢に操業してゐた或日、突然蘇聯の警備艦艇に謂れ無く拿捕され、乗組員一同、浦塩に聯行、抑留されました。

 取調べは惨たらしいもので、生きて再び日の目を拝めるかと思った程ださうです。ありもせぬ犯罪事實の自白を強要され、半殺し状態で朝を迎へ、再び鐵格子の中から引き出されました。
 いよいよ殺されるかと半ば覚悟した途端、何故か赤魔官憲の態度が掌を返す如くに豹変し、捜査は打切り、無罪放免。露西亜紅茶まで振舞はれてにこやかに釈放するではありませんか。解き放たれたひうらさん達は警察署だか獄舎だかの外へ出ました。
 天然の港町なら大概、地形的に港へ向って傾斜し、海側の眺望が開けているものです、半信半疑の儘、ともかくも港へ向はむとふらつく脚を海へ向けました。

 その瞬間、何故、助かったかが判りました。

 沖には日本海軍の大艦隊が間近く展開し、旗艦たる巡洋艦以下、各艦砲身を陸に向け、砲門を開き、その強大な攻撃力は毎分幾百幾千發ぞ。
 陛下の赤子にかすり傷だに負はせなばウラジオストックそのものを消滅させんばかりの圧倒的武威を以て、ソヴィエト社會主義共和國聯邦を威圧して呉れてゐたのです。
 旭日の軍艦旗の何と美しく、浮かべる城の何と頼もしかったことでせう。
 皆、感泣しました。
 鋼鐵の艦体に頬ずりしたい思ひで……。

 ひうらさんは無事、日本に帰りました。
 取るにも足らぬ漁舟の、僅かな人数の乗組員の為に、大國相手の戦争をも辞せず、瞬く間に艦隊を繰り出して救出してくれた祖國日本の親心に酬いる為にも、なほ一層仕事に励み、三代の御代を生き抜き、東京都江戸川区小岩の自邸で、四半世紀ほど前に大往生を遂げられました。
 勤倹貯蓄、關東大震災の前の歳に買ったといふ革靴を、靴底だけ張替へ張替へして
生涯穿き続けました。
「贅澤をする金があったら海軍に献金でもせい!」
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