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NHKのオウム事件の番組を見た。

あれから17年もたったのか・・

あの朝のことは、死ぬまで忘れないだろう。

犯行に携わった多くのものは、判決を受け、死刑判決を下された者もいれば、社会復帰した者もいる。

そして報われない日々を過ごし、これからも苦しめられる多くの被害者がいる。




番組では麻原が反社会性を持って、日本に挑戦した経過が描かれていた。

彼は、おそらく悪のカリスマであろう。

しかしながら信徒の若者たちは、最初は悪でなかったろうし、麻原に誘導され、気が付いた時にはもう戻れなかったものと思う。



何故、優秀な頭脳をもった若者があの荒唐無稽な詐欺師の言葉に踊らされたのか。



麻原に宗教法人化を勧めた人物の言葉が紹介されていた。

「宗教には気の弱い人間が集まってくる。あとは取り込んでしまえばいい」という内容であった。

時はバブル期。

そして今はさらに孤独な時代になった。

人ごみの中にありながら、スマホの画面だけに人間関係を求める時代。



何故、彼らは麻原に取り込まれたのか・・このことを解明すべきものと思う。
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ギリシャでの連立政権への論議が決裂したようだ。

ユーロの有事条件である緊縮策を受け入れるという点で、各政党が反発し、多数派工作に失敗した。

再選挙である。

もしかするとユーロ離脱もあるのかもしれない。




しかしながら、ギリシアという国、西欧文化の発祥の地でありながら、いまだに国民性は古代から変わらない。

都市国家の集まりとして、戦争を繰り返しつつも、ペルシアの進行には団結してあたり、戦争が終わると再び内輪もめ。

ローマが台頭してくると、東からの侵攻があるたびにローマに救いを求め、東の脅威が無くなるとローマを糾弾する。

ローマが他の地域に視線を向けると、その隙に漬け込む。

それを繰り返し、ついにはローマも堪忍袋の緒を切ってギリシアを属州にする。




民主主義の故郷でありながら、100人いれば100の意見が出て、決してまとまらないといわれるお国柄。

さて、ギリシアは2000年後の今回も、全ヨーロッパの怒りを買う結末になるか・・。

人生を平和に平坦に生きるコツは、執着心を捨てること。

ただ、それが一番難しい。

だから、大切なものは何も持たない。

そう心がけている。

ソーシャルゲームのコンプリートガチャが景品表示法に抵触する可能性が浮上し、グリーとDeNAの株価が急落した。

2社ともストップ安になり、今日1日で2000億の時価総額が消滅した。

ちなみにこの2社は、昨年のCMの予算の1位2位であり、プログラマーの囲い込みで「非常に」評判の悪い会社である。



電車などの中で、大の大人がゲームに夢中になっているのを見かけるが、「クリックするだけ」のゲームに大人が夢中になるのに、この事件が歯止めをかけるだろうか。

しかしながら、企業が金を搾り上げる知恵というのは、大したものだと思う。

はっきり言って詐欺師泥棒の上を行っている。

こういう会社に勤めている人間は、俺は大手の最先端と思うのか、子供をだまして大儲けして恥ずかしいと思うのか。

まぁ後者だと思うが・・。



金持ちに金を使わせるのは難しいが、貧乏人に金を使わせるのは難しいという言葉を思い出した。


やはり一番大切なのは、教育ということだね。

夜になったばかりの時間、窓の正面に満月。

でかい。

でかすぎる気がすると眺めていたのだが・・・。

夜中になり、ニュースを見ていたら月の軌道が一番接近しているらしく、14パーセントいつもより大きく見えるそうだ。




小学生の頃、誕生日に反射望遠鏡を買ってもらい、毎晩月を見ていたのを思い出した。




今頃、あの人も、あの人も、そしてあの人も、きっと月を見ている。

距離があっても、きっと同じ月を見ている。

世間では、ゴールデンウィークである。

とはいうものの、私には関わりのないというか、ちっともゴールデンではないので、部屋を出ず、自分のための仕事をしている。



世間では豊かな者は豊かな者らしく、貧しい者もそれなりにこの休暇を楽しんでいるのだろう。

私は昨年の今頃抱えていた焦燥感・恐怖感を忘れることができない。

幸運にもネットの仕事を入れ、今はまだ働けている。

だが、来年の今頃どこでなにをしているか、働けているか、生きていられるか、それも確証を持てない。



私はネットの仕事で、この10年以上働いてきたが、いいか悪いかは別としてそれなりのノウハウを持っていると思う。

優れた仕事を出来るかでは問題ではない。

「これは必要ですか」との問いに「イエスorノー」の即答ができる。

これは、「この人は必要ですか」につながる。

結果、私が望む望まないにかかわらず、コストカッターになる。

私はこの11か月で、5人を切り捨てた。

もちろん最終判断は経営者が下しているのだが、その判断の一部は私の意見も入っているだろう。



5人である。

結婚している者もいた。

それを「この人はいなくてもいいです。問題ありません」と切り捨てた。

もちろん、本当に必要ないのだから、嘘も言っていないのだが。

彼らは今どうしてるだろうか。



罪悪感はない。

何故なら立場が逆なら、彼らは戸惑いなく私を切り捨てたはずだから。

だが、会社を立ち去る最後の瞬間、お世話になりましたとドアを閉めた瞬間、ドアの向こうでどんな気持ちでいることだろうと思う。




仕事を無くした不安か、後から入ってきたコストカッターへの恨みか、明日への希望か。




私はよく「明日私が死んでも、システムが動くように」と言う。

私が死んでも、一瞬たりとも仕事が止まらず、何事もないようにシステムが動く。これが理想。

当然、私はただの歯車だから、私である必要性はない。

もっといい歯車が出てくれば、そちらに交換される。

私がそうしてきたように。




テレビで行楽地で笑っている人たちを見ると、この人たちは余程の自信があるのだなと思う。

すぐ後ろで効率化という死神が大きな鎌を持って笑っているというのに。


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