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神奈川県が震災がれきの受け入れを発表したのが、昨年の12月。

しかしながら、地域住民の反対激しく、難航していると言うニュースを見た。

「あんなの持ってこられたらたまらない」

とある男性は話し、説明会で住民側から大喝采を受けていた。



正直、神奈川県でさえそうなのかと驚き、失望した。

あんなのとは・・



人を救う、手を差し伸べると言う行為には、少なからず犠牲を伴う。

頑張ろうニッポンとか、日本はひとつ的キャンペーンには偽りがある。




「我々に迷惑をかけないなら、お前らが頑張っても構わないぞ」に変えたらどうだろう。

もしくは・・

「我々は助けない、当然立場が逆になっても助けてくれとは言わない」にしてもいい。



彼らは民主主義は尊重しているかもしれないが、資本主義を理解していない。

この手の話は計画停電の際にもあった。

「福島は補助金などメリットを受け取っていたんだから仕方ない。我々首都圏はメリットを受けていないんだから停電は不当だ」なんたらかんたら。

その中に純粋に首都圏出身はどれだけいるのだ。

頼まれもせずに田舎者が上京して、都会人面してるのは、地方にない仕事などのメリット目当てという側面があったからだろう。

でなければ生まれた田舎で百姓でもしていればよい。

彼らは東京から「是非上京していただけませんか」とでもお願いされたとでも言うのだろうか。



まぁいい。日本は言論の自由の保障された国家である。

言いたい事を言える。

だが、人を救わなかった過去がある人間が、立場が逆になった時「助けてくれ」とは言えないはず。

言えばそれは、自己矛盾になる。



人を救わない者は、救われない。

情けは人のためならずとは、まさにこの事だ。



私は極論を言っているかもしれないが、そう的外れとも思っていない。

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非常に強い違和感を持っている。




私は現在、恵比寿の会社に勤めている。

恵比寿は東京都渋谷区にあり、都下ではこの20年で最も発展した町のひとつと言ってよい。

かつて寂れた駅があった場所は、立派な駅ビルがあり、下町の風情だった商店街は人通りも多くなっている。

近隣に中目黒・代官山・広尾・麻布・渋谷があり、それらを繋ぐポイントとして発展した。

街行く人々は豊かで着飾り、笑顔を浮かべる者たちも多い。




さて、その恵比寿の西口、地下鉄日比谷線の入り口に、朝になると1人の男性が立っている。

手にビッグ・イシューという雑誌を持ち、遠慮がちに掲げて販売しているが、声を上げていない。

呼びかけを遠慮しているのか、恥ずかしいのか、誰かが売っていることに築いてくれるのを待っている印象だ。

このビッグ・イシューという雑誌については、何年も前から数度このブログで書いている。

ホームレス自立支援の雑誌。

同じ号を何度か買った。

100円で仕入れ、200円で売る。1冊売って100円の儲け。

寒空の下、コーヒーの為に1冊、弁当の為に5冊売らなくてはならない。

もっとも彼は、缶コーヒーは買えても買うまいが・・。




街行く人々は、彼を見ていない。

彼もある意味、着飾る人々を見ていない。

互いに存在していないかのように振舞っているように見える。




私は現在ブランドショップの従業員として、働いている。

決して好景気とはいえないが、毎日たくさんの注文があり、高いものでは数万から100万を超えるものもある。

若い従業員達は、食べ物に困ることもなく、暖房は必ずつけるものと思い、設定温度は29度。

20万足らずの給料の中で着飾り、1000円ランチを笑いながら食べている。

これは恵比寿という同じ街の中で起きている。




私は富裕層に属する両親の元で育ち、日本で最も高額の授業料を必要とする学校に通わせてもらった。

仕事がうまくいった時は、サラリーマン10年分を1年で稼いだ。

しかし、私は着飾る人々より、街角にたたずむ彼に親近感を覚える。

着飾る人々の中では胸がざわざわと違和感を訴える。

だが、彼の気持ちは容易に共感できる。




何故なら私は貧困に落ち、彼の立場に限りなく近い境遇にあったからだ。

今夜寝るところがない、明日食べるものがない、ほんの数日後の週末の自分が想像できない。

助けてという相手もなく、声を出すにはプライドが邪魔した。

もしあのままだったら、数ヶ月・・いや数週間後にはゴミ箱をあさっていたかもしれない。

彼を見る度に、あの日の自分を見るようだ。




その時の貧困は自分の信念に従い、落ちるとわかっていて落ちた。

もっとも生ぬるいものではなかったが。

だが恥じてはいない。悪に手を染めるなら、再び落ちるほうを確実に選ぶ。




今の日本は、まるで2つの国民が存在するようだ。

持てる者と持たざる者。

我々は資本主義を選択した。

最大多数の最大幸福を求める社会。少数の敗者の困難を認める社会。

そしておそらくこの階級差は今後ますます大きくなり、固定化されていく。

そして多くの人は、彼や私の立場に落ちる事はないと信じている。根拠なく。




現在、生活保護受給者数は戦後直後を越えた。

だが、今と当時は何かが違う。

人の情だろうか、徳を積む心だろうか、いや最も・・そして絶望的に欠落しているのは想像力だ。

なんとかなると思っている。

経験者として言う。みんな、何とかしようと思ってなんとかなるなら、彼はあそこに立ってなどいない。

そしてあそこにはいつ誰が立つ事になっても不思議ではない。





今我々は資本主義の焼け野原に、それと気づかず立っている。

聞く者のないこの焼け野原で、この声が届くなどとは、期待していない。



今日、スペースシャトルの番組を見た。

開発を含めると40年前に始まり、飛行に成功してからは30年。

その初飛行時の着陸を覚えている。

まだ小学3-4年だった。

朝早く起きて、NHKの中継でパラシュートを開いて着陸するのを夢中で見ていた。




今日の番組で初めて知った事がある。

「スペースシャトルはその特性ゆえ有人テストが出来ず、ぶっつけ本番だった」という事。



アメリカはアポロ1号で、宇宙飛行士3人を焼死させるという悲劇を過去に起こしていた。

スペースシャトルで同様の事故がおきれば、10年の努力が無駄になり、計画が頓挫する可能性があった。

宇宙飛行士は、命を賭けてでも乗るというだろう。

彼らにとって宇宙こそ人生そのものなのだから。

だが、NASAの度胸に驚いた。



さて日本だったらどうであったろうか。

番組内でNASAのディレクターは「リスクの先にこそ進歩がある」と言っていたが、日本だったらどうだろう。

予算の問題もあるだろうが、それこそが日本が有人飛行をしない理由ではないだろうか。

なにしろ犯人に威嚇射撃した警官が殺人未遂で告発される異常な国だ。

失敗を恐れ、チャレンジせず、常に責任を他者に求める。




かつてはそうでなかった時代があったと思う。

戦後復興の時期はきっと前を向くしかなかっただろう。

今は極度にリスクを恐れているように感じている。

リスクをとって株式投資をしている人間が成功すると「うまくやったな」と羨みながら挑戦はせず、失敗をするのを見ると「そらみたことか、そうなると思ってた」とはやし立てる。




だがリスクを恐れるほどのものを我々は持っているのだろうか?

リスクをとるということは、持っているものを「なくて元々」と割り切って、賭ける部分もある。

だからこそのリターンである。

多くの人は、何も賭けずリターンだけ欲しがっているように見える。



これは家族も友人も財産も持たない私の虚勢だろうか。



将棋では、最初の一手を打つ前の状態が完璧な守備の状態という。

勝つ為に一手打つたびに防御が崩れる。

だからこそ「負けて当然、勝って偶然」という言葉がある。

ただ一手を打たない限り勝利もない。



本日のブログは産経新聞からの転載です。

記録のため、残したい。



元航空幕僚長の田母神俊雄氏が第1回の最優秀賞に選ばれて騒然となった「真の近現代史観」懸賞論文。第4回の選考では札幌医科大の高田純教授(57)による論文「福島は広島にもチェルノブイリにもならなかった~東日本現地調査から見えた真実と福島復興の道筋」が最優秀賞(賞金300万円)となった。理系論文での異例の受賞で、現地調査を積み重ねた上での大胆な結論は世間に衝撃を与えそうだ。田母神氏も激賞する論文の中身とは…。(溝上健良)

 昨年12月8日、日米開戦70年の日に開かれた表彰式では、主催したアパグループの元谷外志雄代表が「今回の論文はすばらしい論文だが、近現代史という観点から(受賞は)どうか、という話もあった。ただ戦後の歴史は核をめぐるせめぎ合いの歴史であり、核を抜きにして歴史を論じることはできないのではないか、ということで審査員が全員一致で最優秀賞に選出した」と選考経緯を明かした。選考にあたっては氏名、経歴などは伏した上で論文の中身だけで判断したという。核をめぐる現代史の裏面を描いた論文も見事だが、審査委員の見識が光った選考結果だったともいえる。受賞論文は、アパグループのホームページで全文を読むことができる。

 この論文をはじめ、受賞作13編を収録した論文集「誇れる国、日本IV」の出版発表会が続いて行われ、審査委員長の渡部昇一・上智大名誉教授は「原発事故後、高田先生が福島第1原発の門の前まで普通の服装で行った写真が雑誌(「週刊新潮」「WiLL」)に掲載されているのを見たが、『ある程度までの放射線はぜんぜん危なくないんだ』というよほどの自信がなければできないこと。その方に賞を差し上げることになったことを、大変よろこんでいます」と、高田教授の取り組みを評価した。付言するなら高田教授と同様に、信念にもとづいて原発の門前まで調査に訪れた評論家・副島●(=隆の生の上に一)彦氏の行動もまた、高く評価されるべきだろう。

 今回から審査委員に加わった田母神氏は「日本政府が先頭に立って『福島は危ないんだ』と証明しようとしているが、こんなバカなことはない。先日、東京・世田谷区の民家床下から1時間あたり660マイクロシーベルトの放射線を出しているラジウムが見つかったが、その家にずっと住んでいた90歳過ぎのおばあちゃんはピンピンしている。その程度のことが、マスコミによってあおられている。あおればテレビの視聴率が上がる、新聞や雑誌が売れる、薬も売れるということになり、ビジネスに徹底的に利用されている」と放射線をめぐる現状批判を展開。さらに「エネルギー供給量とGDPは比例する。(原発停止で)エネルギー供給量が減ればGDPはさらに縮小し、デフレは続き、日本の会社は米国や中国にどんどん買収されることにもなりかねない。放射能についての認識は“第2の歴史認識”で、これを克服していく上で、この高田先生の論文をぜひ多くの国民に読んでいただきたい」と熱弁をふるい、受賞作を激賞した。

     ◇

 約800人が詰めかけた出版記念パーティーで、高田教授は「今回の受賞の意味は2つあると思う。ひとつは、福島県民は今回の原発事故による低線量の放射線によっては1人として健康被害を受けないという真実を国内外に広く知らしめることになるということ。第2点は、原発の20キロ圏内が(警戒区域に指定されていて)人が戻れない状態になっているが、この圏内の復興に大きく結びつくことになる」と切り出した。なにしろ今回の事故では過酷な環境におかれた原発の作業員ですら、放射線で死亡したり入院している人はいない。そうした中でわずかな放射線を必要以上にこわがることは、福島の復興をさまたげることに直結する。事実を冷静に見たい。

 高田教授は警戒区域の復興策として、原発20キロ圏内の表土を10センチ削り取って除染し、それを海岸に埋めた上で表面を厚さ1メートルのきれいな土で覆い(これで放射線はほぼ防げる)「防波堤公園」をつくることを提言している。関東大震災の際には、がれきを埋め立てて横浜の山下公園がつくられた先例もある。陸上で汚染土の中間貯蔵施設の設置が難航している中、埋め立て案は現実的な提言といえそうだ。

 広島大で研究生活を送った経験のある高田教授は、広島の原爆投下後に降った「黒い雨」による被害状況について「池の魚が、雨に含まれていた強烈な放射能によって多数死んだ。また黒い雨にぬれた牧草を食べた牛が下痢をし、雨にぬれた子供たちの頭ははげた」と紹介。いずれも一度に大量の放射線を浴びたことによる障害だが、福島ではどうだったのか。高田教授は原発周辺に取り残されていた動物に着目し「4月上旬に現地調査で第1原発の門まで行ったが、周辺でも魚が死んでいるわけでもなく、渇きで死んだ牛はいたが、多くの牛は元気で生きていた。牛の状態を見ると、はげた牛はいない。見た瞬間に、広島の黒い雨と、福島の放射線はぜんぜん(レベルが)違うものだとわかった」と解説した。一方で、「チェルノブイリでは1万6千頭の牛や豚をトラックに乗せて避難させたが、菅直人さんは20キロ圏内の牛を避難させず放置した」と菅前首相の不作為を非難した。

 今回の原発事故で原子力安全・保安院は、放出されたセシウムの量が広島原爆の168倍とする試算を公表し大きく報じられたが、高田教授は「まったく意味のない数字だ」とバッサリ。「広島でセシウムによって死んだ人はいない。広島の死者は熱線、爆風、そして半減期の短い強力な放射能によるもの。セシウムの放射線はそれほど強いものではなく、今の日本で起きているのは集団ヒステリー状態だといえる」と説明した。

 ちなみに高田教授はチェルノブイリ原発事故の現地調査の際、自身でセシウムの入ったきのこを食べる「人体実験」を行っている。その結果、セシウム137(半減期30年)は人体に入った場合、体外に半分が排出される生物半減期は100日であることを実証した。かつて胃潰瘍の原因のひとつとされるヘリコバクター・ピロリ菌を実際に摂取して実証した教授が2005年にノーベル医学・生理学賞を受賞したことがあったが、こうした体を張った研究は高く評価される傾向にあるようだ。

 高田教授は大震災後の昨年4月以降、福島県内で住民の甲状腺検査をボランティアで実施。その結果、検査した66人の甲状腺被曝(ひばく)量は最大でも8ミリシーベルトと、チェルノブイリの事例(最大50シーベルト)と比べて千分の1以下だった。その線量から計算すると「福島県民が甲状腺がんになるリスクは年間で1千万人あたり1人以下。といっても福島県の人口は約200万人。つまり、誰も甲状腺がんにはなりません」と結論づけた。

 日本は唯一の核被爆国といわれるが、高田教授はそうではないと指摘する。「世界最大の核災害があったのは中国内陸部のシルクロード、楼蘭のあたり。住民の避難をさせずに核実験が行われ、数十万人が亡くなっている」と明かした。その影響は当然、日本にまでも及ぶことになった。

 中国の地上核実験で放出された放射能の量は、チェルノブイリ原発事故の実に800万倍に及ぶという。「東京五輪の年(昭和39年)に中国の核実験は始まったがそれ以来、黄砂と一緒に放射能も日本全国に降っていた。ただそれはほとんど報じられることはなかった。ストロンチウムについては今回の福島事故の1万倍の量が降ってきた」。セシウムの生物半減期が100日なのに対し、ストロンチウムの生物半減期は15年だ。その結果「“中国産”ストロンチウムによる日本人の体内被曝量は1~7ミリシーベルトに及ぶが、それでどんな影響があったか。団塊の世代の方々がいちばん影響を受けているはずだが、みなお元気。おそらく天寿をまっとうされるはず」と、低い線量では健康に影響がないことは「日本人が実験台となって実証された」と解説した。

 そうした、日本全国を汚染した中国由来の放射能については、今でもほとんど問題とされていない。そうしたことも含め、高田教授は「日本の反核・平和運動はウソだ」と断言。「核・放射線への正しい認識を持って、今後の日本の発展を考えていかねばならない」と講演を締めくくった。

 過去の原発事故や核実験によって、放射線については意外と多くのデータの蓄積がある。そうした事例をわかりやすく提示している点で、この論文は復興の指針となるものだろう。多くの人に読まれることを願いたい。
果たして、人は善か、悪か。

孟子の性善説を説き、荀子は性悪説を説いた。

私は、荀子が正しいと思う。ほぼ毎日、全ての瞬間において。

人の本質は間違いなく悪である。



荀子はこう説く。

人の本性は悪である。

その善であることは、修養によって身についたものである。

人には、生まれつき利を好む心がある。 この本性にしたがうので、奪い合いが起こり、譲り合う心が亡びる。

人には生まれつき人を憎む心がある。 この本性にしたがうので、殺し合いが起こり、いつわらない心や真心が亡びる。

人には生まれつき見たい聞きたいという欲や、快楽を求める心がある。 この本性にしたがうので、道に外れた行いが起こり、守るべき倫理や秩序が亡びる。

人の本性に従えば、必ず奪い合う争いが生じ、秩序を犯し乱すようになって、手のつけられない状態になってしまう。

だから、聖人の教えによる感化や、倫理の道があって、はじめて譲り合う気持ちが出てくるし、秩序を守るようになって世の中が治まるのである。

人の本性が悪であることは明白である。




まことに持って、荀子先生の言われるとおりである。

このままではいけない、だからこそ精進しろと教えている。




さて、私の会社の若手を日々見ている。

彼らは30になって初めてパソコンに触れた私より、はるかに若い時にパソコンに触れ、ネットに親しんできた。

スタート地点は、私より遥に恵まれている。

技を盗まずとも、聞けば教えてもらえる。

私の先輩・先生方もそう思っていただろうか。




しかし、私の先生が言っていたように「水を飲みたがらない馬に、水を押し付けても水は飲まない」とも思っている。

知識は、学べば身につく。

技術は、繰り返すことで身につく。

優しさは、苦難を知ることで身につく。

だが、前を向くという事だけは本人の意思以外では決して身につかない。




先日書いたうさぎとカメではないが、目標から目を離した兎は、目標に固執した亀に敗れた。

最期は、目標に対する愛と熱が勝負を決める。

最期の第4コーナーを周り、直線での競り合いの数センチ勝負では、愛と熱こそが勝負を分けると信じている。




君子曰く「学は以て已む可からず。青は、之を藍より取りて、藍よりも青く、 冰は、水之を為して、水よりも寒し」


彼らにはそうあって欲しいと願う。


40を過ぎ、人と会うとき、その人の本質を見ようと思っている。

男性と女性の違いはあるかもしれないが、見た目はさほど重要ではないと思っている。

もちろん人間だし、生理的な好き嫌いもあるから、会った瞬間の第一印象は大きいとは思うが・・。



人間は、自分以外の人間が同じ空間にいる時は、ほぼ例外なく演技をしている。

これは間違いないだろうと思う。

たとえ親でも夫でも妻でも子供でも友人でも、相手がいれば人は演技する。意図的かは別として。



豪放磊落に見える人間が、豪胆とは限らないし、気がよくつく人間が繊細な人間とは限らない。

その演技の裏を見なければ、本質は見えない。

そうでなければ、泉谷しげるは傲慢で粗暴な親父に見えるだろうし、島田紳助は純粋な熱血漢になってしまう。

もちろん、人の演技はこんなにわかりやすくないものだが。



見た目、装いもその演技の範疇に入る。

高額なものを身に着けているからといって、高級な人間とは限らない。



駅で階段を降りている時の女性のヒールの音。

ジミーチューだかなんだかわからないが、手入れされていれば、あんな音はしない。

女性は特に、歩き方に知性が、座り方に育ちが出る。

ブランド品ではごまかせない。

机の上も同じ、人柄が出る。

こういうものは、よほど気をつけていないと表に出る。




ただ人間関係というものは、相対的なものでもある。

Aさんから見たらBさんは優しげな人に見えても、Cさんから見るとBさんは無愛想な人ということもある。

これは対人関係において、Bさんがランク付けしている場合が多い。

話す内容を文章にすると、わからないかもしれないが、目には出てしまう。

お辞儀の角度にも出ている事が多い。




「巧詐は拙誠に如かず」と言う。

どんなに巧みに欺いたとしても、拙くても誠意あるものには及ばないという意だが、まさにそう思う。



誠実に・・という事は、律儀に・・ということであり、律儀に生きようとすれば、大きな角も立つ。

歴史を見ても、誠実な人間は敗者になる事が多い。

石田三成は家康に破れ、土方歳三は薩長に敗れ、江藤新平は大久保に破れた。




日本のように「まぁまぁとなんとなく事を納める」社会では、律儀な人間はあっちでぶつかり、こっちでぶつかり、最期には大きな力と対決せざるを得ない場所に追い込まれる。

結果、敗者となっていくのだが、彼らが好きでたまらない。

彼らは決して相手の肩書きでお辞儀の深さを変えるような人物でなかったと思いたい。

何故なら、私もそうありたいと思っているのだから。




1月9日の深夜である。

15年前のこの日、この時間、世田谷の道路に積もった雪を踏みしめて帰り、私は1人の部屋で泣いていた。

身体の半分を引きちぎられたような想いの中で、1人号泣していたといっていい。

3年振りの望まない一人の生活だった。



今でも、目をつぶると「ここに電話があり、ここにテレビ、ここに彼女の為に組み立てた化粧台があり、ここには子供達の洋服を掛けていた」と部屋の中を手に取るように思い出せる。

夫婦ではなかったし、子供達も私の子供ではなかった。

しかし、私にとっては私が選んだ家族であった。



今思えば、覚悟のない若造の家族ごっこだったのかもしれないと思う。

当時は荷物を持つということは、他の荷物を置かなくてはならないという事がわかっていなかった。

好きな事を諦められなかった。

話し合いの末、彼女の望む方向に進もうとしたが、やらされてる感をぬぐえなかった。



「嘘をついた」「実現できなかったことと、嘘は違うだろ」

そんなやり取りの繰り返し。



誰よりも知っていたはずの顔が、突然見知らぬような顔に変わり・・。

もうすぐこの手を離れてしまうという焦燥感の中、上目遣いで相手を見て。

束縛してはいけないと思い、無理に笑顔を浮かべて送り出し、帰ってくるはずの時間を子供達と待ち。

電話をすれば「彼女はとっくに帰った」と言われ、予感としてあった不安が目の前に迫り。

真夜中過ぎに帰った顔は、もう届かない場所に行ってしまった顔で。




愛情というものは、与えれば与えられると信じていたし、時間の積み重ねは消えないと信じていた。

私は子供だったのだと思う。



この幸せを掴めなかったら幸せになれないとわかっていたのに。



蜘蛛の糸は切れ、私は落ちた。



住んではいないとわかっていたが、当時住んでいたアパートを見に行った事があった。

見知らぬ洗濯機、見知らぬ自転車。

もうそこにはいない。

わかっていたのに、泣きながら帰った。




「なんで!なんで!なんで!」と手をすり抜けたものに問いかけて。

「俺は掴んだ手は絶対離さないから、もし離すかもしれないなら、この手は掴まないで」の問いに、答えた言葉は絶対と思っていた。




15年が経ち、子供達は成人し、彼女も幸せの中にいるだろう。

一時は怨みもしたが、それも消えた。

もう逢う事も話すこともないが、最愛の3人は常に心の中に。




あなたの幸せを心から願う。


「夫、売ります」という店が新しくオープンすることになりました。

女性が夫にする男性を選ぶことのできる店です。

入り口に店の案内があり、店の営業内容に関する説明もあります。



店内へのご入場はお一人様一回限りとなっております。 
当店は1階~6階の営業となっており、商品の価値は階を上がるごとに、より良質なものを揃えております。
お客様は各フロアでお好きな商品をお選びいただくか、あるいは次の階へ進むことができます。 
ただし、退場される以外で、一度上の階へ進むと下の階へ戻ることは出来ませんのでご注意ください。




そこへひとりの女性が、望みの夫を探すためにこの店にやってきました。

最初の階のドアの商品案内にはこうありました 。

【1階 ── 仕事を持つ男性コーナー】

彼女は興味をそそられながらも次の階へ向かいました。
次の階の案内にはこう書いてありました。

【2階 ── 仕事を持ち、子供好きの男性コーナー】

彼女は、「悪くないわ、でももう少し欲しいわね」
そう思いながら次の階へと向かいました。
次の階にはこう書いてありました。

【3階 ── 仕事を持ち、子供好きで、イケメンの男性コーナー】

「わお!」彼女は心魅かれながらも、上の階への誘惑には抗しがたく、次の階に向かいました。
次の階にはこう書いてありました。

【4階 ── 仕事を持ち、子供好きで、人が振り返るほどイケメンで、家事を手伝う男性コーナー】

「何てことなの!たまらないわ!」 そう言いながらも5階へ向かいました。
次の階にはこう書いてありました。

【5階 ── 仕事を持ち、子供を愛し、気絶しそうなほどハンサムで、家事を手伝い、心ときめくようなロマンチックな心を忘れない男性コーナー】

彼女はその階に留まろうという誘惑に駆られながらも6階へと足を進めました。
そこにはこんな風に書かれていました。

【6階 ── あなたはこの階の31,456,012番目の訪問者です。 この階には男性はおりません。 この階に来る女性を満足させることは、もはや不可能だという証明のためにこの階は存在しています。 当店へのご来場、誠にありがとうございました。】




あとがき

男女差別の罰則を避けるために、この店のオーナーは「妻、売ります」という店も、向かいの通りにオープンしました。

【1階 -- SEXしたい女性コーナー】

【2階 -- お金持ちでSEXしたい女性コーナー】

現在のところ、3階~6階への訪問者はまだ現れておりません。



(。-∀-)ニヒ♪



The Howlin' 'n' Growlin' of a Werewolf of London  より
本日はネットでの出来事を書こうと思う。

とあるグルメ情報サイトで事である。



そのサイトでは、ある店で食事した人間が、「ここは美味い」「ここは不味い」とその店についての感想を書く。

いわゆるクチコミである。

当然、優れたサービスを提供する店にはいいレビューが集まるし、美味くない店にはレビューが集まらず、書かれたとしても人を呼んでくるレビューとはならない。




さて、視点を変えよう。

そもそもそのグルメサイトは何のために運営されているのか?

もちろん個人運営ではない。企業運営である。

つまり利益目的である。

一義的には、広告収入の獲得であろう。

ハンバークの店を探している人には、ハンバーグが売れるかもしれないから・・。



だが大きなアクセスを持っているサイトでも、広告収入で安定した売り上げを持つのは難しいものだ。

ましてやレビューを集めるために、媒体に広告を打ち、人件費をかけて日々更新している。

店は価格競争をしつつ、顧客満足度をあげなくてはならない。

困難である。



この2つの事例を見たある人間が思いついた。

エンドユーザーである顧客から金を取れないのであれば、飲食店から取ればよい・・・・と。

店の食事を食べもせずに「美味しい」「安い」と書き込もう。

そしたら飲食店から金を取れる・・・と。



月に約10万で嘘のクチコミを書いていたそうである。

しかも・・40社近くが同じサービスを提供しているという。



このクチコミサービス会社は、グルメサイトのふんどしで丸儲けと言うわけである。

そしてなにより、エンドユーザーである顧客の利益を完全無視している。



このグルメサイトの運営会社は、かつて家電の価格調査を思いついた個人サイトが出発であった。

当時はネットは個人のもので、皆が思い思いのものを発信する場であった。

このブログも今年で7年目。

前身のウェブ日記を含めると、9年目になる。

その頃はウェブサイトを持つ会社のほうが少なかったし、個人運営のグルメサイトも数多くあった。





しかし10年がたち、ウェブは企業のものになった。少なくとも日本においては。

個人発信の時代だ!グローバル化だ!と言っても、街角を見れば一目でわかる。

スマートフォンに夢中になって歩いている。

なるほど、ツイッターにフェイスブック、ブログにSNS

情報発信かもしれない・・ある意味では。

しかし「ハンバーグなぅ」と言うのが、個人発信の情報化だろうか。

スマートフォンは、所詮受け取る側のツールなのである。

発信者やクリエイターのツールではない。

白痴のように目の前の画面の変化を、本能的に追っているに過ぎない。



本来、ネットでは「誰かが欲しがる情報」を発信するべきではない。

「自分が発信したい情報を発信すべき場」である。

金儲けの為に書く言葉と、自分を追及するための言葉では格段の差がある。

「俺は映画が好きだぁ」と映画を語る言葉こそ、映画ファンを打つのである。

「この映画がヒットしているそうです」では、心の琴線には触れないのだ。



好きなもの以外のサイトを運営すべきではない。

そこには「愛と熱」が決定的に欠けているからである。



セックスフレンドと恋人。

どちらにも行為は存在するかもしれないが、一方には愛がない。

愛のない言葉は絶対に人の心に届かない。

何故なら、己の存在を賭けないからだ。

つぶやきは届かない。存在を賭けての叫びこそ、言葉と思う。




人は必死になってこそ、人を振り向かせる事が出来る。

私はそう思う。


さぁ三が日も今日で終わり。

正月気分も今日で終わりにしなくては・・。

などと言いつつ、正月らしさとは真逆の3日間だったのだが・・。



今年はどんな年になるだろうか・・。

今年は変動の前段階の年になるような気がする。

消費税増税も13年以降になるだろうし、TPPも段階的導入で13年からになるだろう。

TPPというと農作物にフォーカスされがちだが、医療もあれば、通信もある。



国民皆保険が崩れるかもしれないし、日本のネット構造が変わるかもしれない。

来年にはグーグルの日本・韓国・中国版のパンダアップデートも噂されているし・・。

SEOとしては・・正直頭が痛い・・。



今年こそは、衆院選があればいいのだが・・・民主党に入れたらどういう事になるか、みんな良くわかっただろうが・・。

では自民党・・?外交やら防衛を考えると自民党だが・・さりとて今の自民では・・。

小泉さんの独裁政治が懐かしい。

古代ローマのような臨時の独裁執行官のような制度があれば・・。



「何を、何のために、どのようにして、いつまでに」という基本的な事が、日本の政治にはない。

田中角栄か吉田茂がいればなぁと思うのは私だけか。

周囲を巻き込むブルトーザーの登場を待ちたい。
忠臣蔵を見終わる。7時間あっという間。猛烈に感動する。

笑われるかもしれないが、毎年感動する。

男はこうでなくては。



劇中とわかっていても「後顧の憂いなく御本懐を」という武家女性に惚れ直す。

女はこうでなくては。



あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

とは大石内蔵助義雄の辞世の句だが、実際とは違う。


実際には・・

極楽の道は一筋 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人

と詠ったと言われている。



美しい。人の美しさとは、これなのだ。

義士を抜けた者達の名は知らずとも、赤穂義士の名の多くは日本人なら聞き覚えはあるはず。

この鮮烈な美しさがあるこそ、300年経た現代でさえ名が残り、海外にまで語り伝えられる。



例え死んでも、信じた意地を通す。

男はこうでなくては。



忠臣蔵を見ている。

私は昭和の人間であるから、忠臣蔵が好きだし、涙なしにいられない。



さて、義とは何だろうか。

目上・年上を尊ぶことか、愛する者を守ることか。

近年、恋愛至上主義を装いつつ、銭勘定に忙しい人間が多いが、彼らは果たしてどうだろう。

愛してるよ・・とささやく相手に何事か起きた時、命を賭けるのだろうか。



そうだろうと思う人もいれば、そうではあるまいと思える人間も多い。

人間関係の本質は苦しい時、修羅場をくぐってこそ本質が見える。

「身を引く」などと言って、損な役回りを避ける人間も多く見た。

利用できなくなった途端、背を向ける人間も多い。

それではまるで梁上の君子ではないか。



義とは、良心である。

人は言葉で煙にまけても、己は欺けない。

李下に冠を正さず、渇しても盗泉の水は飲まず。

若い頃の自分はすぐ後ろで、今の自分を見つめている。

激動の2011年が終わり、2012年の幕開けとなりました。

穏やかな年明けになるものと思っていたが、オウムの指名手配犯が出頭、関東・東北は震度4の地震となった。

オウムの指名手配犯が生きていた事にも驚いたし、午後かすかな振動を感じ、立ち上がったらマンションが揺れる地震となった。



オウムの事件当時、恵比寿に住んでいてオウムの本部が近所にあり、オウムが暴走する前の衆議院選にオウムが出馬し、駅ビルになる前の恵比寿駅前で踊っていたのも覚えている。

当時付き合っていた女性が新宿駅を利用し、トイレに何かを仕掛けたときは肝を冷やしたし、利用していた神谷町の惨劇も忘れられない記憶だ。



震災については、軽々しく語るべきものでもなく、自身の身体に恐怖感として染み付いてしまった。



私は既に43。

あと何年生きるかわからない。

明日、酔っ払いにひき殺されるかもしれないし、地震で死ぬかもしれない。

場合によっては来年貧困の中で自殺すると言う結果も不思議ではない。



あと何年生きるのか、生きなくちゃいけないのか。

死ぬ寸前の一呼吸の時、自身で何を感じるのか。

そんな事を感じている。



最愛と感じた女性とその子供たちの事を思い浮かべるか。

私を踏み潰していった者たちへの怨嗟の思いか。

それともやっと終わると安堵のため息を漏らすか。



あと何度正月を迎えるのだろうか。

といってもお節は15年近く食べていないし、初詣に一緒に出かける人もない。



日常と変わらず、ただ淡々とサイトを作り続けている。

酒を飲まず、女と遊ばず、博打もせず、遊びに行かず、心から笑う事無く、冷め切った寒い部屋で一人機械のようにサイトを作り続けている。



年末、会社でクリスマスプレゼントを同僚に贈った時、ある女性にこう問われた。

「あなたはどんな未来を望むの?」

しばらく考えて「グーグルに勝つこと」

まぁSEOを手がける人間としては、そんなところだろう。

しかし嘘でもあり、真実でもある。



だが本当の答えは「執着心を捨てて心の平安を手に入れること」だ。

限りなく難しいと思う。

特にこの国に住んでいる限りは・・。



心の平安。

誰にも執着せず、何にも執着しない。

心を荒げる事無く、悲しみを持つこともない。

大切なものは持たず、愛に期待せず、価値の無い物に囲まれて生きる。



失望を避ける最良の方法は、絶望して生きることだ。

恐らくこれは間違ってはいないと思う。

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