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あと数時間で2011年が終わる。

個人としても、社会全体でも、辛く激動の1年。

忘れることの出来ない1年となった。



特に東日本大震災の2万人近い犠牲者の皆さんのご冥福を改めてお祈りしたい。

明日を望んだ彼らが亡くなり、私のようなものが生き残っている事を考えると申し訳ない。



また今年は考えさせられることの多い1年でもあった。

震災後、企業のあり方も問われた。

2万人の被害者の出た震災をビジネスチャンスと捕らえる企業。



今年は将来ターニングポイントと呼ばれる1年になるだろう。

それがいい方向か、悪い方向かは別として。



東京では震災を忘れつつあると感じている。

2500人の震災孤児のこともあまり知られていない。

いつもどおりの生活も大切だが、隣に座る人が絶望している人かも・・という配慮は忘れてはならない。



来年も暮らしをかけた戦いの1年になるだろう。

私の知る優しき人達のご多幸をお祈りする。

1年間ありがとうございました。
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年の瀬である。

この大変な一年の終わりに、無事に健康で路頭に迷うこともなく命を絶つことも無く、年の瀬を迎えられることに感謝している。



ここ数年、ずっと感じてる事がある。

「幸せな人は幸せの価値に気がついていない」



彼らは、私がどんなに頑張っても無理しても手に入れられなかったものを手にしていながら、自ら捨てているように感じている。



神の前で永遠の愛を誓いながら、伴侶を裏切る。

会社案内で社会のためと微笑みながら、法を犯す。

夫や妻や子供や仲間に笑顔を浮かべつつ、振り向いた背中に向って舌を出す。



私にも過去好きな人はいた。

私は自分の商品価値というものを知っている。身の程はわきまえている。

だから相手に感謝していたし、無理しても私がして欲しい事を相手にしようと努力した。

よくプレゼントした時に「金額ではなく、収入の中のパーセンテージを見てね」と笑い話をしたものだ。



私にとっては、愛情は蜘蛛の糸のようなもの。

地獄で頭上に見つけた、か細い希望のように感じていた。

「この糸が切れたら、もう幸せは手に出来ない」

よく言えば死ぬほど大切にしたし、悪く言えば執着した。



だが、結果は皆さんご承知のとおり。

私の友は、愛犬一匹だけだ。

おそらくこのまま人生を終えるだろう。



この現状は認識の違いから生じている。

私にとっては蜘蛛の糸でも、相手にとっては何回でも引きなおすことの出来るおみくじのようなものだ。

大吉でなかったら捨てて、また引き直せばいい。

誰も外れたおみくじなど気にはしない。



他の人を見ても同じように感じている。

こっちがダメならあっち、あっちがダメならそっち、そっちもダメならまたあっち。



そんな想いで本当に当たりが出るのだろうか。

「これが当たり。例えそうでなくとも当たりにして見せる。」

そう思ってこそ、蜘蛛の糸も太いロープになるのではないか。そう私は思う。



人は金鉱を探してトンネルを掘る。

ある程度掘って、ここはダメだと掘ったトンネルを捨てて、別の穴を掘る人間。

ここまで掘ってダメなら、もっと掘る。それでもダメなら更に掘る。それでもダメでもここしかないと信じきって掘り続ける。

私は後者だ。

さてあなたはどちらか。




その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、

悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、

これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、

その命ある限り、真心を尽くすことを誓いますか。



この問いかけは、あなた自身の生き方を問いかけている。


10年ほど前、新宿に住んでいた頃、ある男性と知り合った。

彼はホームレスであった。

犬の散歩で通る公園に住み、貧しくはあったが、身なりを整えた男性であった。

当時、私はコンピュータ管理の仕事をしており、住まいも仕事も新宿であった。

すでに何人かのホームレスを家に泊めては、面接を受けさせ、社会復帰させていたので、彼の力になりたいと思った。

「私の部屋は狭いが食うには困らないから、足がかりにしてはどうか」といった事があった。

しかし、彼の答えは「否」

「それでは、私の人生の筋が通らない」と彼は答えた。



理由は聞かなかった。

彼は恐らく私の年上だったが、目には知性の光があり、髭をそり、髪を整え、スーツを着れば、大学の教授と言っても人は容易に信じたことだろう。



彼はホームレスである。

大半の人間の価値観では、彼は読む価値のないボロボロの1冊の本かもしれない。

果たしてそうだろうか。



ではブランド物に身を飾り、持っている物や車や住まいで自分を飾り立てる人々はどうだろう。

なるほど、彼らは勝利者かもしれないし、立派な本かもしれない。

果たしてそうだろうか。



あるパティシェがこう言った。

「飾り立てているケーキと言うものは、大抵おいしいものではない。

足りない物を継ぎ足し継ぎ足し、飾り立てているから見た目こそ派手だが、そういうケーキに美味しいものはない。

真に美味しいケーキと言うものは、飾り立てる必要すらないケーキである」



速い車に乗っても、足が速くなるわけではない。

豪華な服に身を包んでも、育ちは隠せない。

情報武装しても、教養が身につくものではない。




本と言うものは、表紙をめくって中に書かれていることで価値が決まるのである。

いい書物と言うものは、たった一言で人の人生を変える力を持つが、飾り立てただけの読まれない本など、せいぜいが成金が自らに箔をつけたてて、読みもしないのに本棚に並べる程度にしか役に立たない。



さて・・明日、あなたが目にする人間と言う書物は、ブランド品で装丁された4コマ漫画か、

それともわら半紙に描かれた人生の貴重な経験か。



もっとも、書物と言うものは読み解く力がなければ、惑わされるだけなのだが。



今年も残り1週間となった。

昨日はクリスマスイヴで、私の誕生日。

43歳となった。

男の1人暮らしなので、ケーキもプレゼントもないいつもと変わらぬ1日だったが、何の不満もない。

今年の年初め、とても不安な気持ちだった。

失業し、アフィリエイトとSOHOからの収入が全て。

雇用保険も切れていた。

面接に落ち、たまに受かればSEOなどでモラルに反するキーワードを順位上昇を依頼され、こちらからお断り。



「神様も、畳み込んでくるなぁ」と思っていた。

年初めには、年末は・・なんて想像も出来なかったし、1週間後どうやって生きているかもわからなかった。

今年最大の私へのプレゼントあるとすれば、それは仕事だろう。

この寒い冬に布団の中で眠り、温かい食事をとる事が出来、お世話になった方たちにお礼さえ出来る。

これは当たり前のことであるように見えて、今後は当たり前のこととは言えなくなる時代が来る。



昨日のクリスマスイヴ、街を歩いていて、こう思った。

「あなたが手をつないで笑っているパートナーは、来年も隣にいてくれると思いますか?」

「あなたの仕事は来年もあなたを必要としてくれますか?」

「来年の今日、あなたは笑顔でいられると思いますか?」



多くの人は「YES」と答えるだろう。

もちろん努力もしていることだろう。



では、恵比寿で着飾り愛を語る傍らで、寒空の下、薄着のままでホームレス自立雑誌を売る彼は努力していなかったのだろうか。

「どうにかできたはずだ」とおっしゃる方も多い事と思う。

なるほど、どうにかできたろう。

私の義兄のように、法の隙間を潜り抜け、外国人研修生を搾取したり、

私に「多重債務 ローン」のキーワードでSEOを依頼し断られた弁護士連中のモラルを持ってすれば、なんとかできたろう。



今は笑顔で弱者の布団を剥ぎ取り、その布団を家族にかけてやる時代。

しかも恐ろしいことに、その家族はその事を知っていて、受け取る時代だ。

我々の手は既に弱者の血まみれなのだ。

そしていつ弱者に落ち、他者にはらわたまで貪り食われても不思議ではない時代。




来年のクリスマス、あなたも私も、今日と同じように過ごせる保証はない。

だが確かな事がひとつ。



来年、私は敗者に落ちているかもしれないが、生き方は変えない。

私を踏みつけて行った人達がそうであったように、うすら笑いを浮かべながら悪事を働き、「皆さんのために頑張ります」とのうのうと言い切る生き方は選ばない。

来年も、私は恩には恩をもって報い、裏切りにはそれ以上の報いをもって答える。

変節はしない。

私は意地っ張りなのである。


15年前、好きな女性と彼女の子供と暮らしていた時、夜になると絵本を読んで聞かせていた。

皆さんにも、子供に絵本を読んであげる夜があったと思う。



さて、そんな時どんなことを思って、読み聞かせしているだろうか。

寝かせるために読むものもいれば、喜ぶ顔を見たいために読む者もいることだろう。



どんな物語にも教訓が隠されている。

うざきとかめ。



皆、どんなつもりで読んでいるだろうか。

「どんなに歩みが遅くとも、努力を続ければ報われる」

そんなところだろうか。



私もそう思っていた。

そして間違っていたと、最近気がついた。

あれは・・・かめが勝った話ではない。

うさぎが負けた話だと。



あの話は「うさぎが目標から目を離したから敗北した」という話であり、「決して目標から目を離してはならない」という話なのだ。



もちろん努力するかめさんを貶めたいわけではない。

努力は必ずしも報われないが、勝利した人間はほぼ全員が努力者なのだから。


ただかめがどんなに努力しても、才能あり、なおかつ目標に固執するうさぎには勝てない。

走ることも歩むことも大切だが、一番大切なのは「何になりたいか」という目標から目を離さないこと。

それが一番大切ではないだろうか。

師走も半ば、年の瀬である。

電車の中やショッピングモールなどで、幸せそうに笑う家族が目に付く。

しかしながら、笑っているだけならまだしもマナーのなっていない子供が多い。



みんなの休憩所であるはずのソファに寝そべる、床に座り込みふざける、奇声を上げて走り回る。



ちなみに私が言っているのは、高校生などではない。

高校生になれば、それは本人の資質の問題だ。

しかし、幼稚園から小学生にかけた子供たちがひどい。

なかには「子供なんだから騒がしいのは当然」と言う方もいるだろう。

もしあなたがそう思ったのなら、それは・・。


あなたがその程度の家庭で育ち、その程度の教育しか受けてこなかったという証拠だ。

つまり、あなたの親もその程度の教養の持ち主だったと言うことになる。



世の中でもっとも大切なことは、規律だ。

ルールを守ることであり、ルールを守らせることだ。

「子供らしく好きなように」というのは、親としての怠慢であり、教育の放棄だ。


家庭内では騒いでもいいだろう。

しかしながら共用の場で騒ぐ子供を放置すると言うのは、怠慢に他ならない。

私も子育てはしたが、口で教えてもダメなら、強制して教えた。



教育を与えられない子供は動物と同じである。

そして教育とは、少なからず強制を伴うものである。

騒ぐ子供たちを見ると、苛立ちの前に「哀れだな」と感じ、彼らの将来を思うと同情の念さえ感じる。



何故なら、彼らを観察していると現れる彼らの親が、いかにもという親だからだ。

彼らは恐らく親と同じ道をたどる。

悪いスパイラルは、どこかで覚悟を持ち脱出する明確な意思を持たなければ、脱し得ない。

残念なことに、渦の中では気が付かないのも事実だろう。

無知であることと、己が無知である事を知っているのは、天地ほども違うのだから・・。


規律を知らないものに、規律を尊べと言っても、それは無理な話と言うものである。


埼玉に越してもうすぐ7年になる。

最初は東京も埼玉も大して変わらないだろうと思っていた。

電車で1時間で着くのだから、そう変わるはずもないと思っていた。



ところが、実は大違いである。

人々を見ていると、驚くほど自分主観である。

少なくとも都内で数年暮らした人間なら、駅や道路で自分の横の人間、後の人間を無意識にしても意識しているはずである。

そして最低限のパーソナルスペースを取ろうとする。

しかし、埼玉の人間はそれがない。

驚くほどである。

自分が立ち止まりある行動をすると周囲にどんな影響が出るかを考慮していない。

かつ、自分が考慮していないことを自覚していない。



しかしながら、彼らを責める事が本位ではない。

野良犬に吠えるなと怒るのと大差ない。

何故ならそれは習得して身につくものなのだから。

身につく環境・意識がなければ、身につかない。

「なら東京の人間は、訓練したと言うのか」と思われる方もいるだろう。

修練はしていないが、意識している。



山手線の中で弁当を広げ酒を飲む人間はいないが、埼玉では驚くほどいる。

私の住んでいる地域は、元々は幕府直轄の天領であった地域。

天領には知識階級であった武家は少ない。

だからどうとまで書くのは避けるが、納得はいく。



なるほど埼玉の人々を見れば、東京の人間と変わらない格好をしている。

ブランド品を身につけ、私などよりよっぽどオシャレに着飾っている。

だが・・と思う。



私は人をみる時、歩き方、座り方を見る。

歩き方には知性が、座り方には育ち方が出る。

これは間違いないと思っている。



歩みに意思を込めない利口者はいるかもしれないが、意思を込めて歩む愚か者はまずいない。

40年生きてきて、間違いないと思う事がある。

「育ちは隠せない」

歩き方を見ると、その人の持つ品位と言うものが現れている。


美意識とは、着飾って身につくものではない。

常に問いかける意識として、受け継がれるものだ。

美意識のない家庭に、美意識は決して育たない。



武家の人間が何百年育んできた意識と言うものは、100年程度で消えてしまうものではない。

ゆえに・・・というわけだ。
陸前高田市の避難所に派遣された看護士が、津波で母を失った6歳の少女に「サンタさんから何が欲しい?」と聞いたら、「おうちとママ」と答えたそうだ。

少女の母親は、その子が大事にしていたお人形や絵本の入ったリュックを抱えて亡くなっていたのだ。


このニュースを会社で見て、仕事中だったのだが、思わず泣いてしまった。

今こうして文字を追うだけでも涙が出る。


「サンタが100人やってきた!プロジェクト」に1000円寄付すると、500円のお菓子を2人の子供に贈れる。

5000円なら10人の子供たちに贈る事が出来る。


送ることにした。


酒を飲む人なら、ビール瓶2本分。タバコを吸うなら2箱分。女性ならオシャレなランチ1回分。


どちらが生きた金になるだろう。

その1000円が生活に大きな影響を与えない方が読んでいたのなら、是非一考していただきたい。

今年はあまりにもむごい・・むごすぎる1年だったのだが、こういう事を考えてくださる方たちがまだこの国にいる事を知り、頭が下がる。


サンタがいるのなら、彼女の願いを聞き届けろとは言わない。

だが、私は今までいろんな人を受けた恩の一部を彼女に返したい。

できれば、彼女の言葉があなたを動かすことに期待したい。

これはいつものような絶望した独り言ではない。

私はあなたに語りかけている。

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