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ドラマ「仁」を見てるのだが、条件反射で泣いてまうわ

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ずっと揺れ続けてるんだけど・・。

天井から吊るした自家製地震計が震えてる。

うち鉄筋なんだけど・・。

うーむ・・
ずっと聞いているのだが、亡くなってもう7年。

やっぱり早すぎたと思う。



この1ヶ月、反原発の声と共にメタンハイドレートに対する期待の声をよく聞く。

実用化には10年と言われているが、原発への投資を回せば数年で開発できることと思う。

しかし、メタンハイドレートがいいという人は、メタンハイドレートの危険性を知っているのかと疑問である。

メタンハイドレートの危険性は、ある意味で原発を遥かに・・遥かに上回り、暴走したらおそらく人間にはもう止められないものと思う。



ノルウェーの沖には、1000キロに及ぶ地域に巨大な穴が無数にあり、最大なものは直径3キロに及ぶ。

これはメタンハイドレート崩壊によるもので、温かい海水と接したことで大爆発を起こした痕跡だ。

8000年ほど前に崩壊が起こったといわれ、合計3500億トンのメタンハイドレートが噴出し、爆発し続けたものだ。

直径数キロの火柱が海上に立ち上り、数年間燃え続けたものと推測される。

CO2に換算(×21倍)すると73500億トンとCO2が一挙に4倍にも増えて、急激に温暖が進行した。

いま爆発が起きると10年で気温は4℃も上がり、さらに多くのメタンハイドレートが誘爆し、止められなくなる。

ちなみにノルウェーの爆発した際の量は、全埋蔵量の3パーに過ぎない。



これを制御する技術を人間はまだ開発していない。

メタンハイドレート崩壊が起きれば、哺乳生物にとって危機的な状況になると思う。

原子力怖さに、メタンハイドレート開発を急げば、原子力以上に危険である。


全原発廃止が理知的な判断と言えない以上、火力・水力・地熱・風力・太陽発電の効率化を進めつつ、安全な原子力・メタンハイドレートの開発をすべきと思う。

それに原子力を扱い始めて、たかが100年である。

人類は多くの問題を1000年2000年、ものによっては数万年掛けてクリアしてきた。

100年目の挫折で、開発を放棄とは人類に無かった誤った選択である。
本日の内容は、高校の校長が卒業生に贈った文章である。

我々は時代の中の一滴に過ぎず、その存在は小さく儚いものだが、共に経験した激流として今年の事は忘れないと思う。

そして彼の語る思いは、後世語り継がれて行くものと思う。

願わくば、心して読まれたい。



※以下 全文



卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。

諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。

このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」と題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。

これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。

諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。

大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。

大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。

多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。

楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。

君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。

学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。

誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。

大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。

言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。

大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。

大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。

「今日ひとりで海を見てきたよ。」

そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。

時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。

いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。

海を見つめ、大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。

鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。

教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。

「真理はあなたたちを自由にする」(ΗΑΛΗΘΕΙΑΕΛΕΥΘΕ ΡΩΣΕΙΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32

一言付言する。

歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。

惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。

救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。

泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。

今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。

被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するとともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。

巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。

本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)

被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。

梅花春雨に涙す2011年弥生15日。

立教新座中学・高等学校

校長 渡辺憲司


川崎市が福島県のガレキの持ち込み処理を申し出たところ、市民からの苦情が2000件を超えて殺到しているとの事。

「放射能で汚染されてる」「子供が心配」「市長が福島出身だから売名行為だ。福島に銅像を建てたいだけだろう」

との意見が届いていると言う。

放射性物質の汚染ごみは移動が禁止されているので、もちろんこのガレキには含まれていない。

「これが頑張ろう日本」なのか

それならいっそのこと、「我々の痛みにならないのなら、頑張っても構わないぞ」に変えたらどうだろう!!


我々東京電力管内の人間は、福島に負担を押し付ける事を、能動的受動的かは別として、黙認してきた。

そして事故が起こっても、押し付け続けようとしている。


私は以前、貧困にあり砂を噛むような思いをした。

だから助けたい人は、家に入れ、助けようとしてきた。

ホームレスから社会復帰した人もいれば、留守中に家財道具を盗んで消えた人もいる。

それは構わない。

だが、身を切らずに助けますと言っても、彼らには届かないと言うことだ。

最悪共倒れしても構わないと言う心構え・姿勢がないなら、人は助けられない。

これは断言できる。

そうでないなら、救いの手は伸ばすべきではない。

世の中には、救いの手を伸ばす人の方が少ないのだから、見捨てるのは、恥ずかしくは無い。

ただ救わない人は、自らも救われないと言うことだけは認識しておくべきだ。

私は埼玉県在住だが、ガレキの持ち込み処理や原発の設置を埼玉が申し出ても反対しない。


本日の記事は、余計なことは書きません。

上の写真は、中国人2人が尖閣抗議デモを妨害 路上に座り込み、行進を中止させようとした時の写真。
下の写真は、高円寺で顰蹙を買いまくったの反原発デモ(動画を見ると、ほぼカーニバル)時の運営スタッフと思われる人物の写真。

見比べてみればいいんじゃないでしょうか。



語る必要は無いでしょう。

プロ市民とは、こういう存在。

いや支那人だから、「プロ支那人」と言うべきか。

民主党がしているのは、こういう方々に投票権を与えようとしていること。

なにしろ、民主党は日本の政党とは言えない政党ですから。

総選挙を心待ちにしたいと思います。

初見ですがハマります♪韓国のグループらしいのですが、かなりいいです♪



日本に進出するなら、見た目の派手なアイドルでなく、こういう本物に来てもらいたい。

今回の震災での東電・・というより東電社長や、神戸の震災で死者数を掛けたといわれる神田うの(ブログで否定も、落語家との会談記事にて確定)や、震災で入社試験締め切りを1日だけ延ばしたトンボ鉛筆の担当者など、みな相当叩かれている。

彼らが叩かれるのは、ある意味当然で、致し方ない。

このバッシングはいつ終わるのかと思ってみているが・・ようは記憶の彼方になるほどの時間が経つか、自殺でもするかのいずれかではないかと思う。

自殺がいけないとも言わないし、非難して自殺に追い込むのは違法でも無いだろうから、止めようも無い。

止める気は無いが。

ただ言ってる方は、自分が言われる立場になった時のこと考えてるのだろうか。




わたしはこのブログで、やれシナ人だの、やれ呑百姓だの言っている。

読んでる方は、随分と極端な情緒不安定な人間と思われているだろうと思う。

だが、批判されても構わないし、それで人が私の前から消えていっても構わないと思う。

自分の発言で追い込まれたことは、何度もあるが、多分直すことは無い。

意見を聞かれて意見を言わない方も世間には多いが、それは意見の無い人か、意見を言った際のリターンを怖れて言わない知恵なのだろうと思う。


叩く以上、叩かれる覚悟はある。


私の中の価値観で、「それはないだろ」と思う人とは連絡を絶つし、そうやって気づかないうちに私自身が切られていることもあったろう。

父も切った。不正を繰り返す義兄も切った。子供に嘘をつき自分をかばう姉も切った。多くの友人も切った。

そして彼らに依存している私も切った。



アガサ・クリスティーじゃないが、そしてみんないなくなった。

どーでもいい人と、どーでもいい付き合い方をするのが、一番の自己防衛なんじゃないかとも思う。


大切なものは持たず、いつでも捨てられるものしか持たない。

わたしが本心を明かせるのは、いのちの電話のおじさん位だが、まぁそれもいいと思っている。

何故なら、私の前にいた人達に無慈悲に私が振舞ったからだ。

お互い様だが。



舌鋒鋭く人を刺すのは容易い。だが身を切られて尚切っ先を人に突きつけ続けるのは案外難しい。

私も、「ここはいいか・・」と相手に合わせてしまいそうな時がある。

だが難しい。


結果、1人きりなのだが・・。

私の周りには、過去の私しかいない。

言い分を自分可愛さで変えてしまえば、過去の自分さえもが私を支えてくれないだろうと思う。

自分が死ぬ時を看取ってくれるのは、過去の自分と思えば、若かった頃の自分は裏切れないなと思う。


自分の中の筋を通しての、孤独なら甘んじて受けるのもなかなかいいものと思う。

少なくとも・・「そんなつもりじゃなかった」という寒々しい台詞を吐かなくて済む。

そういうつもりで口にしているのだから。
私の母方は、福島県であり、今回の原発の被爆エリア20キロ以内にある。

叔父は福島を捨てられず、いまだ避難所に残っているが、叔母や従兄弟は都内と神奈川にとりあえず住まいを移した。

私の母の墓も、当然被爆エリア内だ。

叔父の話では、警官などが防塵マスクに白装束で長い棒を持ち、不明者の捜索をしているそうだ。

子供の頃、夏休みに遊んだキャンプ場や買い物に行ったホームセンターは津波で消え去り、何百人も飲まれた。

被爆エリアと言うことが、いまだ手を差し伸べられていない理由である。






さて、現在震災から約1ヶ月が経過し、人々の心も痛みを受け入れ、復興への一歩をこれから踏み出そうとしている。

しかし、原子力発電への否定的意見が渦巻いている。

当然の反応かとは思うが、いささか感情的過ぎる気もする。

停電の際にも書いたが、未来と言うのは感情を除外し、冷徹さをもって進めるべきだ。

そして人間の行動は、経済活動である事を念頭に置くべきだ。




人間は過去数千年の歴史において、偉大な発明を成し遂げてきた。

火を発見し、鉄器を発明し、蒸気機関を発明し、内燃機関を作成し、インターネットを開発した。

原子力も発明し、原爆で数万人を蒸発させ、原発でエネルギーを作ってきた。

広島では14万人以上が死に、長崎でも8万人亡くなった。

傷を負ったものを入れれば、50万人程度になるだろうか。

今回の原発でも将来的に死者が出るかもしれない。




だが、原子力を捨てるべきではないと思う。

直すべきところは直し、正せるものは正して続けるべきと思う。

安全と言い切っていたものも、反対といって改築に反対していたものも、直すべきは直すべきである。



火事になり、村ひとつ町ひとつ焼失したと言って、人類は火を捨てていない。

アフリカの平原を出たその日から、人間は自らの発見がいかなる犠牲を伴ったと言っても、それを捨て去ったことは無い。

原子力の被害者が、仮に100万だとしても捨て去ることがあってはならない。

原子力を捨てるのは、我々の先祖がアフリカの平原を恐れのあまりに出なかったのと同じことだ。



宗教・・キリスト教や共産主義も人間が開発してきたものだが、人類はいまだその両方を捨てていない。

キリスト教と共産主義の犠牲者の数は、原子力の被害者を上回る。



人類の歴史は、克服の歴史である。

アフリカを出て、大気圏を出て、多くの犠牲を生んだが、歩みを止めれば、種の限界に突き当たる。

いかなる理由があろうと、いかに犠牲者が出ようと、血を流しながら進むべきである。


お台場や新宿中央公園に迷い無く原発を作れる日が来るまで、血を流しつつ進むべきだ。

もちろん私や私に近しい人々が血を流すことになったとして、続けるべきと思う。



進歩には、いつも危険がともなう。

1塁ベースに足をつけたままでは、2累に盗塁することはできないのだから。
最近、「平等で無い」という言葉をよく耳にする。いかがなものか。



例えば・・男女が10人ずついたとする。

そしてそれぞれもてる者順に順番付が出来ていたとする。

で、このグループ内でカップルを作っていくとする。

すると・・1位の男女、2位の男女・・となり、全員カップルになるはず。本来はね。

しかし、現実には、10組のカップルにはならない。

何故か・・。それは、上位の男性が複数の女性を保有するからである。

そして、下位数人の男性は、女性資産を持てない「貧困層」となる。


これは資産も同じ。女性を資産と同じと言うと、ジェンダー論者は目くじら立てそうだが、人類は5000年の歴史の中で女性を「資産」として、多くの父系社会では女性の父が夫に「娘」という資産を譲渡すると言う形式を取っている・取っていたので、純然たる資産。

「お嬢さんをください」というのは、「あなたのコミュニティに入り、富を配分しますので、女性資産を譲ってください」というのと、同意なのである。





さて、何が言いたいかというと・・・。

資産の平等化は、まず不可能と言うことだ。

例えば、日本ではトップ1パーが富の25パーを独占している。

トップ10パーまで広げれば、70パー程度の独占になるだろう。

同様なことは、アメリカ・中国・ヨーロッパでは、より激しく進んでいる。

つまり・・資本主義とは、「機会以外は、平等ではないシステム」であり、「資産が平等な資本主義」という言葉は破綻している言葉なのだ。

これから将来は純然たる資産量による階級社会となるのは目に見えているし、階級間の移動もこれからはほぼ固定化され、それを乗り越えるのは至難の業になる。

つまり貧乏人の子は、高等教育を受けられず、親と同じように貧乏人のまま。中には上の階級に行くものも出るだろうが、それには膨大な努力と運が必要となる。

平等なのは機会であって、資産ではない。そして、その機会とて潤沢では無いということだ。




よく「東大なんて大した事無い」という人がいる。事実かもしれないし、事実で無いかもしれない。

都内進学校から東大に受かるには、1日平均10時間の勉強が必要であると言われている。

これが受験テクニックか、豊かな知識かは、この場合問題ではない。

1日10時間費やす必要があり、彼らはその対価を支払ったと言うことだ。

その進学高校に入るには、また膨大な対策時間が必要だ。

そして入らなかった人々は、機会は平等であったにも関わらず、その時間をほかの事に浪費してしまったと言うことだ。



これは他の事象でも共通している。

機会を浪費してしまったにもかかわらず、平等を求めるのは矛盾している。

いいとか、悪いとか言ってるのではない。そういうものだと言っているだけだ。




「チャンスが、二度君のドアをノックすると考えるな。」と語ったのは、ジャンホールだが、この言葉には続きがある。

「ノックしたチャンス側にドアノブがない。チャンスはノックは出来るが、ドアを開けることは出来ない。ドアノブは、私たち側にしかないのだから。」



言い得て妙である。

そして残念なことに、チャンスの自動ドアはまだ開発されていない。
最近思うことがある。

テレビや、ネットニュースをみていると、それらの報道のソースが「ワシントン・ポスト」の事が多い気がする。

んー・・なんで・・どうして・・あの「ワシントン・ポスト」なのか・・理解に苦しむというか、マスコミの悪意を感じる。

あなたの友人にアメリカ人がいて、その友人がリベラル色の強い人で無い限り、「HAHAHA!本当のアメリカを伝えてるのは、ウォール・ストリート・ジャーナルさ!(≧ω≦)bワシントン・ポストなんて民主党の連中しか読まない」と笑い飛ばすはずだ。

「自分の裏庭に30もの軍事基地がほしいですか」と沖縄県民が全面広告をのせたのも、ワシントン・ポスト。

「独島は韓国の領土」と誠信女子大客員教授が全面広告を載せたのも、ワシントンポスト。

まぁ、朝日新聞みたいなものだ。

本当の日本を伝えるのは、朝日新聞でなく、日本経済新聞であるのと同じく、真のアメリカを伝えるのは、ワシントン・ポストではなくウォール・ストリート・ジャーナルだ。

ワシントン・ポスト読むくらいなら、ダラス・モーニングニュースでも読んだ方がいい。

平沼赳夫元経済産業相も従軍慰安婦問題の広告を載せるなら、ワシントン・ポストでなく、ウォール・ストリート・ジャーナルに出すべきだった。

ティー・パーティーか、プロ市民だか知らないが、アメリカの真の姿は保守。

良くも悪くも、正義感に燃える偉大な田舎者が、アメリカの本当の姿と思う。

今回の震災で、個人的に多くのメールを外国からもらったが、そのほとんどはアメリカ人。

それも、どちらかというと地方の人だった。

中には「今回の津波を真珠湾のカルマと言ってる馬鹿もいるが、相手にするな」と言ってくれた工事現場の作業員もいた。

10年以上連絡が無かったのに「なんかあったら、こっち来い」と言ってくれるヒューストンのガンコ親父もいた。

日本とアメリカは、かつて何度も修羅場をくぐった。

真の友人とは、共に修羅場をくぐった者のみに与えられる栄誉なのだ。

今回の震災で、危険を顧みず手を差し伸べてくれるアメリカ合衆国こそが、日本が失ってはならない真の友人と思う。
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