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音楽を聴いている。

BGMとして聞くのではなく、言葉として聞いている。

数年前、多分5年位前かな、流行っていた曲。


三木道三のLifeime Respect



ええかげんそうな俺でも、しょーもない裏切りとかは嫌いねん。
尊敬しあえる相手と、ともに成長したいねん
一生一緒にいてくれや…


この曲の、言葉が理解されてのヒットだったかは、今になってはわからない。

だが、この言葉はある意味理想であり、
現実・・今の世間の風潮には合っていない。

特に夫婦関係や恋人関係には即していない。

不倫や浮気や自分勝手という名の裏切りもせず、
「幸せにしてもらう」のではなく、共に幸せを目指し、
死が2人を分かつまで共に過ごす。


そしてなにより「尊敬しあえる」という言葉。


尊敬しあえる、愛しあえる、理解しあえる・・


いい言葉だと思う


だが、お互いの気持ちが自立していなくては、
なかなかそういう境地には届くまい。

自立無しでも、そういう気持ちにはなるかもしれないが、
「尊敬されていない」
「愛されていない」
「理解されていない」
という言葉を多く聴くのも事実。

相手が理解してくれようが、理解してくれまいが
相手を理解しようとする事は大切なことだろう。

しかも、自分の感情に踊らされずに・・。


所詮私を含め、我々は自分の気持ちさえはっきりと認識できず、
その時々の感情に流されがちだが、
おそらく・・・おそらく、相手を理解する気持ちがない限り、
相手に一方的に理解されることはないだろう。

理解しなければ、理解されない。

そんな簡単なことは、みんなわかっていることだろう。

簡単だが、とてつもなく難しいことでもある。


相手の感情や状態、自分の感情や状態。

そんなものから少しでも自立、いや独立というべきか、
独立して、たとえ出来なくてもそうあろうというのは、
いくらかでも価値のあることだろう。

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今日と明日は、おやすみをもらった。

楽しくウキウキ出来ない心地なので、楽しくは過ごせない。

考えても変えようのないことを考え、口に出しては、たしなめられている。


やることがないので、少しだけ部屋を片付けた。

机の上や、ベッドの下、浴室の前などに、
読みかけや読み終わった本が置いてある。

もともとはかなりの読書家だと思うし、
東京にいた頃は本棚が部屋でもかなりの部分を占めていた。

埼玉に来てからは、ほとんど全部の本を売るか、友人に譲り、
今現在は余程のお気に入りか、読みかけの本ばかり。


だから、「この本だれかにあげようか、捨ててしまおうか」と考えるときもある。

たとえ、読みかけでも・・。


そういう本そのものの価値は、
読みかけならば、内容は把握していないし、わからない、
読み終わっていれば、今は興味がない・・。

そういう感じだろう。

かと思えば、背表紙のタイトルの主張する力で、
本棚に残っている本もある。(読んでいなくても・・)


つまり、無意識に自分の将来の好奇心と本の価値を計っているわけだ。


ここで、手放されてしまう本と、本棚に残される本。


大きな差があります。非常に大きな差が。




これって、我々人間でも同じことだよね・・。

選ばれる人と、拒まれる人。


果たして、その分水嶺ってなんなんだろうな・・。


すっかり正月気分も消え、世の中がいつものペースに戻っている。

多くの人が、家族の待つ場所・生まれ故郷に帰ったことだろう。

故郷に帰りたい人がいる。
故郷に帰りたくない人がいる。
帰るべき故郷がない人もいる。

私は東京品川の出身だが、もはや東京に帰る場所はない。

地方出身者である父は故郷で余生を過ごしているだろう。
もう20年間逢っていない。

母は他界し、姉は結婚した。

私の一族は、父と私だけになっている。

もう私には帰る場所も、帰るべき場所も、
もうこの星には私を迎えてくれる場所すらない。

私の居場所は、私が立っているこの場所のみである。


帰るべき場所を持つ者達にとって、自分を迎えてくれる場所に立ったとき、
ゆっぱりここなんだという想いを抱くものと、
やはりここではなかったかという想いに至るものがいることだろう。

帰る場所と言うのは、帰っていくものの想いでどんな風にも変わる。

帰りたければ、帰ればいい。

帰りたくなければ、帰らなければいい。

だが、帰るものにとって自分の思い描いた「帰るべき場所」であるとは限らない。


それはすべてについて言えることだろう。

家族のもとでも、恋人の腕の中でも、美しい思い出の場所でも
アメリカでも、東京でも、アフリカでも、
そこが自分の思い描いた場所とは限らない。


どこもかしこも、一時的な住処なのかもしれない。


どんな場所でも、自分が変わっていけば、
良くも悪くも収まりが悪くなっていくものだ。

子供のときの服が着れなくなるように、
母の胎内から生まれても、母の胎内に帰る事がないように。


我々は、私は、
その「場」に帰りたいのか、
その場所にいた「人」のもとに帰りたいのか、
それとも、その場所にいたはずの「自分」に帰りたいのか・・。


果たして、どれだろうか。


考えてみれば、どれもこれも、わがままな「帰りたい」だろう。



何故なら、場所も、人間も、自分も、時間の流れに逆らって、
変わっていくのを止めることなんて出来ないものだろうから・・。



結局、帰らなくていいんです。


帰りたいと思っていたところがどうなっているか、
「たしかめに行く」だけなのだろう。


眠れずに音楽を聴いている。
いろんなことを考えながら。

先月38度目の誕生日を迎えた。
例年通り、友人知人にプレゼントを贈り終え、
愛犬と過ごすクリスマスイブの誕生日であった。

考えてみれば、わしが親元を離れたのは19歳の2月。

以来、数年間を好きな人と一つ屋根の下で過ごした期間はあるが、
大部分は1人で過ごしてきた。

19歳で親元を離れ、現在38歳。

親元で過ごした期間に、一人きりで過ごした時間が追いついた。

自我の芽生えるまでの数年間を差し引けば、
1人きりのほうが長い。

海の中に漂いながら、続かない息を堪え、
騙し騙し泳いできたようなものだ。

限界を感じた頃に酸素ボンベを見つけ、深く吸い込むときもあれば、
ボンベをくわえてしばらくすると、酸素切れになり、
また、数年間水中を漂う。

ボンベを見つけても、どうやってもバルブが開かず、
酸素を目の前にしながら溺れることもある。

視野を広く持てば、海面に顔を出したり、陸に上がると言う手もあるはずだが、
性分なのか、開かないバルブの前で溺れている。

海面に出れば、新鮮な空気を思い切り吸い込めると言うのに、
開かないボンベの中の鉄の味のする酸素を吸い込もうともがいて、
肺にある空気まで吐き出しそうになっている。

今はただ・・ただ、苦しくて、溺れている。
咳が止まらん・・。

会社でわしの座る席は、暖房の真下。

暖かいのは大変結構なのだが、わしの弱点は・・。

気管支が弱いこと。

暖房の熱風を受けると、乾燥した風のせいか、咳が止まらなくなる。

咳が止まらなくなり、げーしそうになってしまうし、熱も出る・・。

うー・・

赤ん坊の頃から気管支だけは弱いので、この季節の暖房は苦手なのだ。




最近、人間関係というか、他者との関りというものについて考えていた。

悩むと言うよりも、どうやって受け入れるべきかを考えていた。

他者との関係性を探っていた時、更なる他者との関係性が発覚し、
それが私にとってあまりにも衝撃的な出来事で、
いろんな感情に踊らされ、正直自分を見失い暴走していた。

現在は、まるで平素のわしそのもののように見えていることだろうが、
心の中には絶えることなく、感情の波が打ち寄せている。

受け入れることが耐えがたい苦痛なのだが、
受け入れないことは、それ以上の苦痛をわしに強いることになる。

ひさしぶりに自分が生身の人間であったことを思い知らされた。
そんな年末の2ヶ月間であった。



ドイツの作家・ヘッセの言葉に次のような内容の言葉がある。



君が幸福を追求している限り、
君は幸福な者として、未熟である。

たとえ最も愛すべきものを、君が持っていたとしても、
君が失ったものの事で嘆いたりいらだっている限り、
君には心の平和と言うものが理解できないだろう。

君があらゆる希望を捨て去り、
もはや目的も要求も求めず、
幸せのことなど口にしなくなった時、

その時、事件の波は君に届かなくなり、
君の魂は、初めて憩いを得る。




咳が止まらず、のた打ち回るように耐えながら、
苦しさの中で涙を流しながら、
そんな時が果たして私に訪れるだろうかと考え続けている。

そんな夜更け、わしの想いである。
三が日もおわり、世間がそろそろ動き始めました。

この三が日は出勤していたので、今日4日からが私のお正月です。

埼玉に来てからは、東京にいた頃と違い、
地理的に不案内と言うことや交通事情もあり、
インドアな人間になりつつありますが、
それでもなかなか有効に時間を使っていたほうだと思います。

仕事を終え帰宅すると、PCを立ち上げ、ホームページのメンテナンス。
まぁ、これは半ば仕事なのですが・・。

プライベートな時間になると、映画を見たり、音楽を聴いたり・・。

常に何かをしていた人間です。

たまーにロマンチック風味になったときだけ、
月を見上げたりしていたものです。

しかし、ここ最近、そういったことに興味が持てず、
音楽も聴かず、テレビも見ず、考え事をしています・・。

考えたからといって、なにかが変えられるという事柄ではありません。

ですが、考えてしまいます。

人間関係というものは、複雑です。

常に優先順位があり、知らず知らずのうちに自然に順位が入れ替わります。

意識的に遠ざけているわけでなく、遠ざけられているわけでもないのに
いつのまにか心の中心軸を離れて行ったりします。

代わりに、気にもしていない人間が心から離れなくなり、
星も見えない夜空を見上げながら、考えていたりします。

我々人間と言うものは、いや、私という人間は弱いもので、
1人きりで構わないと思っていたのに関わらず、
それでも精神的支柱を求めて、心のどこかで期待しています。

しかし、相手には相手の都合というものがあり、
それゆえの葛藤があり、精神的なバランスを崩しそうです。

大人の判断がわかっていながら、
適当な距離をとることの出来ない私は、どうやら今年も未熟者のままのようです。
あけましておめでとうございます。

早いもので、ブログ移行前の日記コーナーを含めれば、
3度目の新年を迎えることが出来ました。

昨年10月末から2ヶ月ぶりの更新となりますが、
11・12月と精神的体力を削がれる事ばかり起きて、
なかなかブログを書くだけの熱意をもてませんでした。

昨年最後のブログで書いたように、
ある人物に自分と言うものを伝える為に始めたこのブログですが、
もうおそらくその人物は、このブログを訪れてはいないことでしょう。

しかしながら、この数ヶ月間にプライベートでも人間関係に激変があり、
その出来事や自分の心境の変化を知る為にも、
今後もこのブログを日々綴ることを再開しようと思います。

今後も宜しくお願いします。

しかし、人間と言うものは不思議なものですね。

あれほど近くにいたはずと思っていた人物達が、
なにが変わったわけでもないというのに、
遠くへ行ってしまったように感じ、
気にも留めていなかったその他大勢のうちの1人が
自分の感情や生活に大きな影響を与え始める・・。

感情と言うものはそういうものといってしまえばそうなのかもしれませんが、
自分の心と言えども、なにか無常のような感覚を覚えます。


ともあれ、今後もこのブログは、私の一年間の心の変化を綴っていくことでしょう。


本年も宜しくお願いいたします。

今年一年が皆さんにとって、幸多き素敵な一年となりますように。
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